玉 臺 新 詠 序










玉臺新詠 卷之一

   古詩八首

   古樂府詩六首 枚乘
   雜詩九首
   歌詩一首 李延年
   詩一首 蘇武
   羽林郎詩一首 辛延年
   怨詩一首 班?、
   董嬌?詩一首 宋子候
   漢時童謡歌一首

   同聲詩一首 張衡
   贈婦詩三首 秦嘉
   秦嘉妻荅一首 徐淑
   飮馬長城窟行一首 蔡?
   飮馬長城窟行一首 陳琳
   詩五首 徐幹
   室思詩一首 又
   情詩一首 又
   定情詩一首 ?欽
   古詩爲焦仲卿妻作 無名氏

玉臺新詠 卷之二
   於清河見輓船士新婚與妻?一首
      魏文帝   
                 
   清河一首 又
   樂府塘上行一首 甄皇后
   雜詩二首并序 劉勲妻王宋
   雜詩五首 曹植
   樂府三首 又
   棄婦一首 又
   樂府二首 魏明帝
   詠懷詩二首 阮籍
   樂府詩七首 傳玄
   和班氏詩一首 又
   情詩五首 張華
   雜詩二首 又
   内顧詩二首 潘岳
   悼亡詩二首 又
   王昭君辭一首并序 石崇
   嬌女詩一首 左思


玉臺新詠 卷之三
   擬古七首 陸機
   爲顧彦先贈婦二首 陸雲
   贈車騎一首 周夫人
   樂府三首
   爲顧彦先贈婦往反四首 陸云
   雜詩一首 楊方
   合歡詩五首
   七夕觀織女詩一首 鑒王
   嘲友人一首 李充
   夜聽擣衣一首 曹?
   擬古詩一首 陶潛
   樂府詩二首 荀?
   雜詩二首 王微
   雜詩三首 謝惠連
   雜詩五首 劉鑠

玉臺新詠 卷之四
   七夕月下一首 王僧達
   爲織女贈牽牛 彦延之
   秋胡詩九首 又
   雜詩九首 鮑昭
   學阮歩兵體一首 王素
   擬樂府四首 ?邁遠
   雜詩六首 鮑令暉
   雜詩五首 丘巨源
   雜詩五首 王元長
    雜詩十二首 謝眺
    子山王孺中妾歌 陸厥
    雜詩一首 施榮泰

玉臺新詠 之五
    江淹 四首
    丘遲 二首
    沈約 二十四首
    柳ツ 九首
    江洪 四首
    高爽 一首
    鮑子卿 二首
    何子朗 三首
    范倩婦 四首
     何遜一 一十首
     王樞 三首
     ?丹 二首

玉臺新詠 卷之六
    ?均 三十四首
    張率 三首
    徐? 三首
    費? 十首
    姚翻 二首
    劉令嫺  二首
    何思澄 三首


玉臺新詠 卷之七
    擣衣 梁武帝
    擬長安有狹斜十韻 又
    擬明月照高樓 又
    擬青河邊草
    代蘇屬國婦
    古意 臨高臺
    芳樹 有思所
    古意 紫蘭始萌
    織婦 七夕
    戯作
   樂府三首 皇太子製
    艶歌篇
    蜀國絃歌十韻
    妾命薄篇十韻
   代樂府三首
    新成安樂宮
    雙梧生空井
    楚妃嘆
   和湘東王横吹曲四首
    洛陽道 折楊柳
    紫?馬 南湖
    北渚 太堤
    蓮舟買荷度
    照流看落釵
    春宵 冬曉韻
    戯作謝惠連體十三
    倡婦怨情十二韻
    和徐?事見内人作臥具
    戯贈麗人 秋閨夜思
    和湘東王名士ス傾城
    從頓暫還城
    詠人棄妾 執筆戯書
    艶歌曲 怨
    擬沈隱俟夜夜曲
    七夕
    同劉諮議詠春雪
    ?景出行
    賦樂府得大垂手
    賦樂器得箜篌
   詠舞 春閨情
   又三韻 率爾成詠
   美人晨粧 賦得當爐
   林下妓
   擬落日窓中坐
   美人觀畫
   ?童
   代秋胡婦閨怨邵陵王綸
   車中見美人
   代舊?有怨
   登顏園故閣 湘東王繹
    戯作艶詩
    夜?柏齋
    和劉上黄
    寒宵
    詠?栖烏
    詠秋夜
    同蕭長史看妓
    和湘東王夜夢應令
    曉色
  閨妾寄征

玉臺新詠 卷之八
    蕭子顯 二首
    王? 六首
    劉孝綽 五首
    劉遵 二首
    王訓 一首
    ?肩吾 六首
    劉孝威 三首
    徐君? 二首
    鮑泉 二首
    劉緩 四首
    ケ鏗 二首
    甄固 一首
    ?信
    劉? 四首
    紀少瑜 三首
    聞人? 一首
    徐孝穆 四首
    ?孜 一首
    湯僧齊 一首
    劉令嫺一首
    王叔英妻 一首

玉臺新詠 卷之九
    歌辭 二首
    越人歌 一首
    司馬相如
   烏孫公主
   漢成帝時童謡 二首
    漢桓帝時童謡 二首
    張衡 四首
   秦嘉 一首
   魏文帝 二首
     曹植 首一
     傅玄 八首
     張載 四首
     晉時童謡 一首
     陸機 一首
     鮑昭 八首
     釋寳月 一首
     陸厥 一首
     沈約 八首
     ?? 二首
     張率 四首
     費昶 二首
     皇太子 一 十五首
     湘東王繹 四首
     蕭子顯 六首
     王? 一首
     劉孝綽 一首
     劉孝威 一首
     徐君? 二首
     王叔英妻 一首
  沈約 二首

玉臺新詠 卷之十

   古絶句四首
   欣妻李夫聯首句 賈充
   情人碧玉歌 孫綽
   情人桃葉歌 王献之
   荅團扇歌 桃葉
   東陽漢中贈 靈運謝
   丁都護歌 宋孝武
   擬徐幹詩一首 許瑶
   詠?榴枕


      閨婦荅隣人
      寄行人 鮑令輝
      石城樂
      估客樂
      烏夜啼
      襄陽樂
      楊叛兒
      春歌 夏歌
      秋歌 冬歌
      前溪 上聲


   歡聞歌 長樂佳
    獨曲 潯陽樂
    陽歌曲 蚕絲歌
     雜詩
    丹陽孟珠歌
    錢塘蘇小歌
    擬古 王元長
    代徐幹
    秋夜 詠火
    玉階怨


    金谷聚 謝眺
    王孫?
    同王主簿有所思
    玉階怨 虞炎
    襄陽白?銅 沈約
    早行逢故人車中爲贈
    爲隣人有懷不至
    詠王昭君 施榮泰
    詠酌酒人 高爽
    ?興妖神謝贈府君覽


    採菱 江洪
    ?水曲 秋風
    詠美人治粧
    王昭君嘆 范靜婦
    映水曲南院 何遜
    閨怨 爲人妾思
    詠春風 秋閨怨
    雜句 ?均
    春思 王僧孺
    爲徐僕射妓作 徐?婦


    光宅寺
    題甘蕉葉作示人
    摘同心梔子贈娘附此詩
    代陳慶之美人爲詠
    夢見故人
    有期不至
    代西豐侯美人 王環
    邊戍 梁武帝
    詠燭 筆
     笛 舞


     聯句詩 春歌
     夏歌 秋歌
     子夜歌 上聲歌
     歡聞歌 團扇歌
     碧玉歌
     襄陽白銅?歌 皇太子
     雜詠
     行雨 梁塵
     華月 夜夜曲
     從頓還城南


    春江曲 新燕
    彈箏 夜遣内人還舟
    詠武陵王左右五 傳杯
    有所思 ?人
    贈麗人 遥望
    愁閨照鏡
    浮雲 寒閨
    和人渡水
    春閨思 蕭子顯
    詠苑中?人


   遥見美人採荷 劉孝綽
   詠小兒採菱
   詠舞曲應令 ?肩吾
   詠主人少?應教
   詠長信宮中草
   石崇金谷妓
   蕩婦高樓月 王臺卿
   南浦?佳人
   詠織女 劉孝儀
    石蓮


    和定襄候初笄 劉孝威
    古體雜意
     佳麗
    和定襄候楚越衫 江伯瑶
    爲徐陵傷妾 何曼才
     袙複 ?
     殘燈 紀少喩
    暮寒 王叔英婦
      歌眼 戴嵩
     繁華 劉泓

玉臺新詠  序・案内 序文  〔徐 陵〕


《玉臺新詠集序》

(六朝末期に編集された詩集である《玉臺新詠》)の序文。この詩集は、陳の徐陵が撰したもので六朝の新樂府
を産出せしめる、当時の思想信条、感情に大きく反映せしめるものであった。)

そもそも高く雲零を凌ぎ天の太陽と高さを斉しくする豪華な宮殿は(春秋時代の)晋の由余も未だ曾て見ない所で
あった。

千門万戸の盛況は、漢の張衡が著書の《西京賦》」にえがき出した通りである。

そして、そこは、さながら周の穆王の壁台の上なのか、あるいは漢の武帝の金屋の中かと見まごうばかりである
ばかりか、玉樹は珊瑚を枝としているのである。

珠簾は玳瑁ではめこみの鎮飾がほどこされてあり、その中に「宮中内職制度」により、多くの美人が住んでいる
のである。


 この文はみごとな四六駢儷体で書かれている。四六文には作法上厳密な規則があるが、ここには作法を述べるのが主
旨ではないから説明を省くが、読者として特に注意したいことは、対語・対句に十分気をつけて見ねばならないことであ
る。この文は便宜上、四段に分け各段ごとに区切って解説することにする。


駢文(べんぶん)とは、中国の文語文における文体の一つ。「駢体」または「駢体文」ともいう。散文・韻文に対立
する文体で、魏・晋のころに形成され、六朝時代から唐にかけて盛行した。

「駢」とは2頭の馬が並んでいることを表し、対句を基本とする文体であることを意味している。「駢儷文」(べんれ
いぶん)あるいは「駢儷体」ということもあるが、「儷」(または「麗」)もまた「ならぶ」という意味である。また1句の
字数が、4字句または6字句を基調とするため、「四六文」(しろくぶん)とも呼ばれた。「四六」の語は晩唐から使
われはじめ、宋から明にかけて使われた。「駢文」の名は用いられるようになったのは清代においてである。これ
らを合わせて「四六駢儷文」または「四六駢儷体」と呼ぶこともある。また「駢四儷六」ともいう。さらに駢文の中に
は、平仄など韻律面を整えたものもある。


玉臺新詠集序

        陳尚書左僕射、太子少傅、東海徐陵孝穆撰。


(1)§1-1

夫凌雲?日、由余之所未窺、千門萬?、張衡之所曽賦。

周王璧臺之上、漢帝金屋之中、玉樹以珊瑚作枝、

珠簾以玳瑁爲?。其中有麗人焉。



(2)§1-2

其人、五陵豪族、充選掖庭、四姓良家、馳名永巷。

亦有潁川新市河間觀津、本號嬌娥、魯名巧笑。

楚王宮裏、無不推其細腰、衞國佳人、?言訝其纎手。

?詩敦禮、豈東鄰之自媒。



(3)§1-3

婉約風流、異西施之被教。

弟兄協律、自少小學歌、長生河陽、由來能舞、琵琶新曲、

無待石崇、箜篌雜引、非關曹植、傳鼓瑟於楊家、得吹簫於秦女。


(4)§2-1

至若寵聞長樂、陳后知而不平、畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。

東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微?得陳於甲帳。

陪??娑、騁纎腰於結風、長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。



(5)§2-2

粧鳴?之薄?、照墮馬之垂鬟、反?金鈿、抽瑶樹。

南都石黛、最發雙蛾、北地燕支、偏開兩靨。

亦有嶺上仙童、分丸魏帝、腰中寳鳳、授?軒轅。



(6)§2-3

金星将?女爭華、麝月與?娥兢爽。

驚鸞冶袖、時飄韓掾之香、飛燕長裾、宜結陳王之佩。

雖非圖畫、入甘泉而不分、言異神仙、戯陽臺無?。



(7)§2-4

眞可謂傾國傾城、無對無雙者也。

加以天時開朗、逸思雕華。妙解文章、尤工詩賦。

琉璃硯匣、終日隨身、翡翠筆牀、無時離手。



(8)§2-5

清文滿篋、非唯芍藥之花、新製連篇、寧止葡萄之樹。

九日登高、時有?情之作、萬年公主、非無累コ之辭。

其佳麗也如彼、其才情也如此。



(9)§3-1

?而椒宮宛轉、柘觀?岑。絳鶴晨嚴、銅蠡晝靜。

三星未夕、不事懷衾、五日猶?、誰能理曲。

優?少託、寂寞多閨B厭長樂之疎鍾、勞中宮之緩箭。



(10)§3-2

纎腰無力、怯南陽之擣衣、生長深宮、笑扶風之織錦。

雖復投壺玉女、爲歡盡於百嬌、爭博齊?心賞窮於六箸。

無怡神於暇景、唯屬意於新詩。

庶得代彼?蘇??愁疾。



(11)§3-3

但徃世名篇、當今巧製、分諸麟閣、散在鴻都。

不籍篇章、無由披覽。

於是然脂暝寫、弄筆晨書、選?艶歌、凡爲十卷。

曽無?於雅頌、亦靡濫於風人。渭之間、若斯而已。



(12)§4-1

於是麗以金箱、裝之瑶軸。 

三臺妙迹、龍伸蠖屈之書、五色花牋、河北膠東之紙。

高樓紅粉、仍定魚魯之文辟惡生香、聊防羽陵之蠹。



(13)§4-2

靈飛太甲、高擅玉函、鴻烈仙方、長推丹枕、至如牛帳裏、

餘曲?終、朱鳥窓前、新粧已竟、方當開?縹帙、散此?繩、

永對翫於書幃、長循環於纎手、



(14)§4-3

豈如ケ學春秋、儒者之功難習、竇專?老、金丹之術不成。

固勝西蜀豪家、託情窮於魯殿、東儲甲觀、流詠止於洞簫。

?彼諸?、聊同棄日、猗歟?管、無或譏焉。




(玉臺新詠集の序) 
§1-1
夫れ凌雲・?日は、由余の未だ窺ほざる所にして、千門寓戸は張衡の曾て賦せし所なり。
周王璧臺の上、漢帝金屋の中、玉樹は珊瑚を以て枝と為す。
珠簾は玳瑁を以て押へと為す。其の中麗人有り。

§1-2
其の人や、五陵の豪族にして、掖庭に充選せられ、四姓の良家にして、名を永巷に馳す。
亦た穎川・新市・河聞・觀津、に本と矯蛾と號し、魯て巧笑と名づくる有り。
楚王の宮裏、其の細腰を堆さざる無く、衞國の佳人、?に言ひて其の纎手を訝る。
詩を閲し禮に敦き、豈 東隣の自ら媒するがごとくならんや。

§1-3
婉約風流、西施の被教に異なれり。
協律を弟兄とし、小より歌を学び、少きより河陽に長じて、由来能く舞ふ。
琵琶の新曲は石崇を待つ無く、箜篌の雜引は曹植に関するに非ず。
鼓瑟を楊家に傳はり、吹簫を秦女に得たり。


§2-1
寵 長樂に聞ゆるが若きに至りては、陳后知りて平かならず、
畫 天仙を出せば、閼氏覽て遥かに妬み至るが如し。
東鄰の巧笑に 來りて寢に更衣に侍し、西子の微?【びひん】せるはに甲帳に陳なるを得。
?娑に陪?しては、纎腰を結風に騁せ、鴛鴦に長樂しては、奏 聲を度曲に新たにす。

§2-2
鳴?の薄?を粧い、墮馬の垂鬟を照し。
反まがって金鈿を?し、ざまに瑶樹を抽く。
南都の石黛は、最も雙蛾を發き、
北地の燕支は、偏えに兩靨を開く。
亦た嶺上の仙童、丸を魏帝に分ち、腰中の寳鳳、?を軒轅に授くる有り。

§2-3
金星は将に?女【ぶじょ】と華を爭い、麝月は?娥と爽を兢う。
驚鸞の冶袖は、時に韓掾の香を飄し、飛燕の長裾は、陳王の佩を結ぶに宜し。
圖畫に非ずと雖も、甘泉に入りて分たず、
神仙に異なると言うも、陽臺に戯れて?つなし。

§2-4
眞に傾國、傾城、無對、無雙の者と謂う可きなり。
加うるに天時の開朗、逸思の雕華を以てす。
妙に文章を解し、尤とも詩賦に工みなり。
琉璃の硯匣、終日 身に隨い、
翡翠の筆牀は、時として手より離す無し。

§2-5
清文の篋に滿つるは、唯 芍藥の花のみに非ず、
新製の篇に連ぬるは、寧んぞ葡萄の樹に止まらん。
九日 登高、時に?情の作有り、
萬年公主、累コの辭 無きに非ず。
其の佳麗や 彼の如く、其の才情あるや 此の如し。


(六朝末期に編集された詩集である《玉臺新詠》)の序文。この詩集は、陳の徐陵が撰したもので六朝の新樂府を産出せしめる、当時の思想信条、感情に大きく反映せしめるものであった。)
そもそも高く雲零を凌ぎ天の太陽と高さを斉しくする豪華な宮殿は(春秋時代の)晋の由余も未だ曾て見ない所であった。
千門万戸の盛況は、漢の張衡が著書の《西京賦》」にえがき出した通りである。
そして、そこは、さながら周の穆王の壁台の上なのか、あるいは漢の武帝の金屋の中かと見まごうばかりであるばかりか、玉樹は珊瑚を枝としているのである。
珠簾は玳瑁ではめこみの鎮飾がほどこされてあり、その中に「宮中内職制度」により、多くの美人が住んでいるのである。
その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである。
昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。
あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。
彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。
衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。
そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。
その奥ゆかしく上品な高教養な態度は、かの西施が(范蠡の)特殊教育を受けて呉王の宮中に入ったのとも異なっている。
音楽家系で育ち、その協律のなか家庭に育って、小さい時から歌を学んでいたのである。
それに舞の盛んな河陽において成長したので、舞は無論妙手である。
自ら琵琶の新曲を作るのに苦もなくて、「造新の曲、哀怨の声多し」といわれた晋の石崇を待つまでもないのである。
それに、箜篌の難曲も、文選に見る魏の曹植を煩わすようなことはない。
鼓瑟は(漢)名門楊(ツの)家より伝授され、吹籍は名人秦女(弄玉)より会得したものであるから、いずれも絶妙の域に達している。
新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
 それかと思うと、髪は魏の文帝の宮人、莫瓊樹がなせる蝉の羽のように透けて見えるほどに解きつくした髪型であったり、或は後漢の政治家梁冀の妾孫寿の考案した「愁眉・啼妝・堕馬髻・折腰歩・齲歯笑、以て媚感を為す」とし、特に堕馬の垂髪を照し出したようなものまであった。それに、黄金作りのかんざしをそりまがるよう挿し、宝珠作りのこうがいを横につき出して強い自己主張をしている。南方の都の地方でとれる石墨で念入りに蛾眉を画き、なによりもさきに、三日月眉、蛾の触鬢が美しい弧を画くのである。北方産のものである燕脂でひたすら両頬の靨鈿をくまどり、飾っている。舞容の??たることは、山上の仙童が魏の文帝に丸薬を与え、「羽翼を生ず」といったことにひとしいほどである。そして、簫の笛の吹奏の巧妙なるは、仙界の宮女らが腰中の宝鳳を黄帝が伶倫に命じて律を作らせたもののように、その律暦があざやかなものである。
金星の黄色のおしろい「花黄」「花鈿」は須女と其の華やかさを争ったといい、彎々たる麝月の眉は嫦娥とさわやかさを競うというものである。
そして、舞う姿にあたっては、鸞鳳の驚くに似たなまめかしい袖があり、時々晋の韓掾の名香をひるがえしたようである。
燕の飛ぶに似た長い裾襟 は 魏の陳思王曹植の玉珮を繋けるにふさわしいものである。
それは、絵にかいたほどの美人ではないが、もし描けば、甘泉宮に入った武帝妃の李夫人の名画と上下を分かち難いのである。
楚の懐王が高唐で逢った、神仙瑤姫とは異なるといっても、陽台の下に戯れてはそれととんと区別ができないということであろう。
まことに傾国といおうか傾城といおうか美人ではある、比類なき無双の美人というべきものである。それに加えることとして、天資・天性は明朗(賢)にして、俊逸の才思は華彩を生じたのである。そして、よく文章を理解し、殊に詩賦を作るに巧みである。そして、大切な琉璃の硯箱は、終日、身辺に携えておくのである。そこには、筆かけに翡翠の筆管は、一時たりとも手から離さない。
こうして作られた清高の作品は筐裏に満ちていて、ただに、晋の傳統が妻の「芍薬花の頌」に比すべきのみならない。幾多の新作の文章は 漢の張洪茂が「葡萄酒の賦」よりも優れたものであるのである。九月九日、重陽の節句には、高い処に登り菊花の酒を飲むにあたっては、時節に合ったやさしき抒情の詩が出来ているのである。晋の万年公主が、父武帝のために寵姫左貴嬢の早世を悼んで作った作品のような生前の徳をたたえた如き名文がなくもないということである。とにかく、その容姿の麗しいことは前述の如くであるが、その才情の豊かなこともかくの通りなのである。
かくて椒房の殿角さえもまろやかにまがり、柘館の管陰は高大深邃なものである。早朝、宮門の紅鶴は厳重に鎖され、白昼になっても、門上の銅環は音もなく静かである。未だ三星の輝く薄暮になるというのに、布団を抱いて御寝に侍する準備もないのである。五日の輪番の期はまだ遠いから、誰が清曲のおさらいをするものがあろうか。ただ、安閑と日を度り、情を寄せる所もなく、寂寞として職事もないから閑暇な時が多い。時を知らせる長楽宮の疎鐘の音も聴くにいとわしく、内寝の水時計の目盛りの箭も見るのが億劫である。
  妖艶な細腰は美しいが力なく、南陽の張魯は女児の搗衣を学ぶを悟らなばならない。深宮の中に生長して、扶風(陝西省)の蘇意が織錦の詩を笑う。たとい玉女の投壷の妙技も、これを見物するのは育矢を往返することに終わるのみである。斉姫の双陸の手錬も、感心するのは六箸の操作だけに止まるであろう。真に心をこめるのは、暇日に恰ばすものはないから、工夫を新詩に凝らすというものである。したがって、これこそ皐蘇のかわりに、彼女たちの愁悶を除去することが出来ようというものである。
こうして、これまで生まれた幾多の名作を、前代の名文に、当今の佳作を選定し編纂した。そしてそれらは、すべて麒麟閣に分蔵したし、儒林伝にいう、鴻都門より、分散して蔵弄されたのである。しかし、それらの篇章を収拾整理して一本にまとめないと、一般に、閲読する方法もない。そこで、燈油をともして夜分までも鈔写しつづけ、筆管をとって暁晨に浄書したのである。その結果、多くの艶歌を選録して共にまとめて十巻とした。乃ちこれは、詩経の雅頌の正声をはずかしめるものでもなく、風人温柔敦厚の本旨を乱るものでもない。乱れたとしても、わずかに黄河にそそぐ水の濁水の水と清流の渭水が合流するように、編纂されたという、ニ水の清濁のへだてがある程度にすぎぬというものである。
 そこでこれに十巻を附添するに黄金の箱を以てし、これを宝玉の軸に被装した。筆者はいにしえ、後漢の三台、蔡?の妙蹟にも比すべきものであるだけに、文字は龍躍り、?屈するの姿勢があるのである。それは、五色の花模様の詩箋であり、その料紙は河北・膠東の名産である。高楼紅粉の才媛が念入りに校勘して魯魚の誤りを正し、書中には麝香の薬剤をはさんで一応蛙損を防いである。
 あたかも漢の武帝が西王母より得たる二つの書物を授かり、それにより霊飛六甲の神符を占有して他人の手の届かぬ場所に、玉白石の箱に入れた。それに、准南王劉安が鴻烈の仙方を人知れず長く丹枕の下に隠して置いたようにして珍蔵することにしたのである。これぞ青牛の図が刺繍されているとばりというものであり、古来の楽曲歌唱が、もうすでに終わって感激したようなものである。南の方の神である紅鳥の窓前にあり、髪を梳き新たに化粧さえもすでに終わってしまったようである。そうなると、はじめてこの書帙を開き、この書帯をほどきひらくのである。それから、永くあいだ書斎の中で相対して玩賞するのであり、長く引き継がれるべきは、宮人のような繊手のものに反復誦読されるべきものである。
 どうして後漢のケ皇后が曹大家について、儒学の春秋を読まれたとしても、儒者の業は習熟し難いものである。漢の竇皇后が熱心に黄老の言を学ばれても、金丹の術に成功しなかったようなことになろうか。むろん西蜀の豪家(劉?)の侍婢が情をこめて纔かに王延寿の「魯霊光殿の賦」を読むのである。漢の元帝の東宮であった時、甲観の宮人がただ王褒の「洞爺の頌」を吟誦し得たのにも勝る。麗しい貌の諸姫にして空虚な日々を過ごす、聊か消遣の具となるものである。?管を握る女史官といえども、これに対して譏刺を加えることはあるまい。



(訳注)
玉臺新詠序?§1-1陳尚書左僕射、太子少傅、東海徐陵孝穆撰。
(六朝末期に編集された詩集である《玉臺新詠》)の序文。この詩集は、陳の徐陵が撰したもので六朝の新樂府を産出せしめる、当時の思想信条、感情に大きく反映せしめるものであった。)
1. 玉臺 「壁臺」「瑤臺」「金屋」などと同意義で、後宮の美人の居所を想定していて、齊の後宮、東宮御所流行の詩を主体に選定された。
2. 尚書左僕射 尚書省(しょうしょしょう)とは、中国で後漢代から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を ... 後漢代には尚書台として少府の下に置かれ、長官を尚書令(一名)・副長官を尚書僕射(二名)としている。
3.徐陵 (507‐583)中国,南朝梁,陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく,548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが,江南に侯景の乱が勃発し,555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代,その東宮に父の徐?(じよち),および?肩吾・?信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は,〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐?体〉とかよばれて世にむかえられた。また《玉台新詠》の編者である。

夫凌雲?日、由余之所未窺、
そもそも高く雲零を凌ぎ天の太陽と高さを斉しくする豪華な宮殿は(春秋時代の)晋の由余も未だ曾て見ない所であった。
3.夫 抑《接続詞「そもそも」が文頭に置かれるところから》最初。発端。副詞的にも用いる。「この話には―から反対だった」「目的が―違う」[接]改めて説き起こすときに用いる語。いったい。だいたい。さて。「―人間というものは」そもそもろん【抑論】物事の始まりや、問題の起きた理由などに立ち戻って論じること。また、そのような論調。
4. 凌雲?日 宮殿の高いのをいった。「凌雲」は雲を凌いで高く聳えること。「概日」は天日と高さが等しいこと。「概」はとかきで、斗斛に盛った物を平らにする棒である。従って、概日はその高さが太陽と平らになることである。『周書』の「武帝紀」、「?を平ぐるの詔」に、「或は層台累構、日に概(たいら)に雲を凌ぐ」とある。「凌雲概日」は下の「千門万戸」と対句になっている。
4.由余 戎の臣。後に秦の宰相になる。由余の祖先は晋人で、逃げて戎に入ったもので、由余は晋国の言葉を話すことができた。B.C.626戎王の命で秦を視察する。秦繆公が官室の祭器をみせると、由余は「これを人民に作らせば人民を苦しめます」と言った。 繆公は「中国は詩書礼楽法律をもって政をしていても時々乱れることがある。これらの祭器がなくて、どうやって政をやっていくのだ」と問うと、 由余は笑って「それが中国の乱れる所以です。上は法律により下々を責め、民は苦しむと仁義を盾に上を恨みます。国が乱れるのはこれら礼楽・法律のたぐいがあるためです。
一方、戎夷では上は純朴倹素の徳をもって下に臨み、下は忠誠信実の心をもって上につかえているため、国の政をするのは、一身を治めるようなもので、 治まるいわれも知らずに治まっているのです。これこそ、ほんとうの聖人の治というものです」と言った。
繆公は由余が賢明であることがわかると内史の廖に「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。
廖は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。戎王と臣との間に隙を作り、 由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。 このため由余はついに戎を去って秦に降り、繆公は賓客の礼をもって待遇した。そして繆公は由余に戎を討つ形勢を尋ねた。
B.C.623繆公は由余の策を用いて戎王を討ち、西戎の覇となった。穆公は由余を用い、その謀によって地を拓くこと千里、遂に西戎に覇となった(『史記』「秦本紀」)。ここは、由余は穆公の宮殿は見たであろうが、「凌雲概日」の大宮殿は未だ見たことがない筈というのである。
まず徳があり、国民に利益をあたえる。 聖人の治(ち)は民に蔵(ぞう)して府庫(ふこ)に蔵(ぞう)せず。 『聖人之蔵於民府蔵於府庫』 韓非子聖人とは、徳の高い人を指し、府庫とは財物・文書などを入れておく蔵。 ここでは自分の財布のこと。

千門萬?、張衡之所曽賦。
千門万戸の盛況は、漢の張衡が著書の《西京賦》」にえがき出した通りである。
5.千門万戸 一に「万戸千門」に作る。
6.張衡 (78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。 経歴[編集]. 没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。曾て班回の「南都の賦」に擬して「二京の賦」を作り、王侯以下の香惨を諷諌した。その作は十年の構恩を経て成ったといわれる。
張衡《西京賦》(27)(建章宮〔二〕には、次の通りである。「?」は垣のこと。
(建章宮(二)) #11-2
天梁之宮,寔開高?。
旗不??,結駟方?。
轢輻輕?,容於一扉。
長廊廣廡,途閣雲蔓。
?庭詭異,門千?萬。
重閨幽闥,轉相踰延。
張平子(張衡)《西京賦》(27)(建章宮〔二〕)#11−2 文選 賦<114―(27)>31分割68回 U李白に影響を与えた詩1064 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3868

周王璧臺之上、漢帝金屋之中、玉樹以珊瑚作枝、
そして、そこは、さながら周の穆王の壁台の上なのか、あるいは漢の武帝の金屋の中かと見まごうばかりであるばかりか、玉樹は珊瑚を枝としているのである。
7. 周王壁台之上 周の穆王(第五代目の天子)が盛姫のために重壁の台を作ったことをいう。
8. 漢帝金屋之中 『漢武故事』に、「武帝の少時、(膠東王となって数歳)、その姑館陶長公主、抱いて膝上に置き、問うて日く、『児、婦を得んと欲するや否や』と。並びにその女阿橋を指して日く、『好むや否や』と。帝笑って対へて日く、『若し阿橋を得は、当に金屋を作りて之を貯ふべし』と。長公主大に悦ぶ。帝既に位に即き、阿橋を立てて皇后と為す」とある。
9. 玉樹以珊瑚為枝『漢武故事』に、「上、神尾を起し、前庭に玉樹を柏う。洞門を以て枝と為し、碧玉を葉と為す。花子の青赤なるは珠玉を以て之を為り、其の中を空にし、小鈴の如くす。鎗々として声有り」とある。「甘泉の賦」の顔師古の注に、「玉樹は武帝の作る所にして、衆宝を集めて之を為る。用つて神に供するなり」とある。
(據《藝文類聚.卷八三.寶玉部上.金》引) 帝年數?,長公主1>遍指侍者曰:「與子作婦,好否?」皆不用。後指陳后2>,帝曰:「若得阿嬌,當作金屋貯3>之。」 *注解: (1) 長公主:漢時皇帝姐妹之稱謂。此指武帝姑媽劉嫖。

珠簾以玳瑁爲?、其中有麗人焉。
珠簾は玳瑁ではめこみの鎮飾がほどこされてあり、その中に「宮中内職制度」により、多くの美人が住んでいるのである。
10. 珠簾以粥瑠為押 『漢武故事』に、「白珠を以て簾と為し、玳瑁もて之を押ふ」 とある。海亀の一種でその背甲はいわゆる竃甲色で、各種の装飾品に加工される。「押」はおさえる意で、その縁のおさえとしてあること。「押」は一に「押」に作り、また「匣」に作る。はこのこと。今は「押」に従っておく。
11. 麗人 美人。宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618−626)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官晶をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」−皇帝の妾とされた。

玉臺新詠集序?§1-2
其人、五陵豪族、充選掖庭、
その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである
12. 其人 一本に「也」の字あり。この「人」は複数。
13. 五陵豪族 「五陵」は長安の近郊にある漢の高祖以下五帝の陵で、長陵(高帝)・安陵(恵帝)・陽陵(景帝)・茂陵(武帝)・平陵(昭帝)をいぅ。その近傍には富豪の家があった。唐代、王維、李白、杜甫の「少年行」詩にみる、貴族の住んでいた所である。
14. 充選抜庭 「掖庭」は奥御殿。宮中正殿の傍合をいう。皇妃官女の居る所。ここは選ばれて後宮の妃嬪に充(ぁ)てられる意。後宮に入るには、@礼をもって宮廷に迎え入れられた場合である。この種の人々の大部分は名門貴顕の出身である。A選抜されて宮廷に入った場合である。良家の子女の才智徳行あるものを厳格に選択するというものであった。B宮中に献上された女性である。この種の人々には様々なタイプがあったが、大半は美貌か技芸の才によって献上された女性であった。いくらかの朝臣は自分の出世のために妻や娘を宮中に入れることを常に願った。C罪人の家の女性で宮廷の婢にされたものである。これらの大多数は、官僚士大夫層の女性であった。ここにいう妃嬪は、@とAをいう。

四姓良家、馳名永巷。
昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。
15. 四姓良家 後漢の明帝の外戚樊氏・郭氏・陰氏・馬氏を四姓といったのに始まり、三国の呉では朱氏・張氏・顧氏・陸氏、晋では雷民・蒋氏・穀氏・魯氏、後魏では廬氏・崔氏・鄭氏・王氏をいずれも四姓といった。六椚時代は郡の名望家を甲乙丙丁の四等に分けて貴族とし、これを四姓といった。
16. 馳名永巷 「馳名」とは美貌を以て名を後宮に馳せたといぅこと。「永巻」は宮中の長廊下。転じて官女、またはその居る所をいう。

亦有潁川新市河間觀津、本號嬌娥、魯名巧笑。
あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。
17. 頴川 郡名。頴水によって名づけた。頴水は河南省登封県の頴谷より出て湛水にそそぐ。水がきれいである。許由が耳を洗ったのも此の川である。頴川郡は美人の多い所、郡治は陽?、今の河南省禹県。
18. 新市 漢の侯国。故城は今の河北省新楽県の西南にある。今は県名となっている。
19. 河間 漢の侯国。河北省献県、河間県の西南にある。今は郡名となる。
20. 観津 戦国の趙の地。楽毅の封ぜられた所。漢の孝文竇太后(名は?)も清河観津の人(『太平御覧』三百九十六)であった。故城は河北省武邑県の東南。穎川以下、皆昔から多く美人の生まれた所。
21. 本号嬌娥 「嬌・娥」は女子の名に多く用いる。
22.  魯名巧笑 『詩経』「荷風碩人篇」に、「巧笑倩たり、美目盻たり」とあり、『論語』「八?篇」にもこれを引いている。「巧笑」は美人の愛くるしく靨をうかべて笑うのにいう。よって女子の通名にも用いることになった。魂の文帝の宮人に段巧笑というのがあったと、古今注に見える。

楚王宮裏、無不推其細腰、
彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。
23. 楚王宮裏、無不推其細腰 「宮裏」は一に「宮内」に作る。『墨子』「兼愛中篇」・『韓非子』「二柄篇」に、「越王好勇,而民多輕死。楚靈王好細腰,而國中多餓人。」楚の霊王が細腰の美人を好んだことが見え、『後漢書』「馬磨伝」に、「楚王細腰を好み、宮中餓死多し」の語もある。「推」は推尊・推賞の意。

衞國佳人、?言訝其纎手。
衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。
24. 衞国佳人、倶言訝其纎手 『詩経』「魏風葛瘻篇」に、「??たる女手、以て裳を縫ふ可し」とある。注に「??は猶繊々のごときなり」とある。「繊手」は指の細くしなやかなのをいう。陛機の「擬西北有高楼」(一八七頁)の詩に、「佳人琴瑟を撫す、繊手清くして且つ閑なり」の句がある。「魏国」は一に「衛国」に作る。『詩経』「衛風碩人篇」に美人をうたって、「手は柔?の如し」の句がある。然し「敵手」の文字よりすれば、魏風を出典とするがよろしく、従って「魏国」に作るを善しとする。「倶言」は口をそろえていう。「訝」は驚嘆羨望の意。

?詩敦禮、豈東鄰之自媒。
そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。
25. 閲詩敦礼 詩を読み札を知るという程の意。教養の高いのにいった。ただ詩を読む結果、人格も向上する、『礼記』「経解篇」の、「温柔敦厚は詩の教なり」の意も多少含んでいるであろう。
26. 東隣之自媒 宋玉の「登桂子好色の賦」や司馬相如の「美人の賦」によって「東隣」は多く隣家美人の意とするが、ここは《孟子?告子下》「踰東家墻而?其處子,則得妻。」に、「東家の墻を踰えてその処子をひけば則ち妻を得、ひかざれは妻を得ず。則ち将に之をひかんとするか」をふまえていよう。「自媒」は『礼記』「坊記篇」にいわゆる、「男女は媒なければ交はらず」にそむいた行為で、妄りに自ら男を求めて奔るのをいう。

玉臺新詠集序?§1-3

婉約風流、異西施之被教。
その奥ゆかしく上品な高教養な態度は、かの西施が(范蠡の)特殊教育を受けて呉王の宮中に入ったのとも異なっている。
12. 碗約風流 「椀約」は奥ゆかしくつづまやか。「風流」は上品な趣味・態度。
13. 異西施之被教 「西施」はもと越国苧羅村の美女、越王勾践が呉に敗れて会稽に退守していた時、呉王夫差の色を好むを知って、美女を献じてその政を乱さんとし、西施と鄭且を得て特殊教育を施し、呉王に献上した。
『呉越春秋』に「飾るに羅穀を以てし、教ふるに容歩を以てし、土城に習ほしめ、都巷に臨み、三年学び脹(抽)り、乃ち花森をして之を献ぜしむ。呉王大に悦ぶ」とある。ここの意味は、「西施のような下桟の出身でないから、自(禁)ら備わる奥ゆかしさと気品があって、西施の特殊教育を受けて宮人となったのとは自ら相違がある」ということ。一本に「豊」を「非直」(ただに……のみにあらず) に作り、また「異」の上に「無」の字がある。意に於て当たらぬようである。今『考異』の説に従い『芸文類宋』によって正した。
14. 西施 本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。
 現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施>>>西施と呼ばれるようになった。
 紀元前5世紀、越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。
 この時の越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。
 呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。
 次は美女軍団が呉の国王を狂わせた。
 十八史略には、西施のきわめて美しかったこと、彼女にまつわるエピソードが記されている。西施は、呉王 夫差の寵姫となったが、あるとき胸の病となり、故郷の村に帰ってきた。西施は、痛む胸を手でおさえ、苦しみに眉をひそめて歩いた。それがかえって色香を引出し、村人の目を引いた。そのときに村に評判の醜女がいて、西施のまねた行動をした。それは、異様な姿に映り、かえって村人に嫌われた。これを「西施捧心」と表され、実もないのに真似をしても無駄なことだということだが、日本では、「これだけやっていますが、自分の力だけでなく、真似をしただけですよ」という謙遜の意味に使用されることが多い。
 このようにまれな美しさをそなえた西施は、呉王 夫差を虜(とりこ)にした。夫差は、西施のために八景を築き、その中でともに遊んだ。それぞれの風景の中には、所々に、席がもうけられ、優雅な宴(うたげ)がもよおされた。夏には、西施とともに船を浮かべ、西施が水浴すると、呉王 夫差は、その美しい肢体に見入った。こうして、夫差は悦楽の世界にひたり、政治も軍事も、そして民さえ忘れてしまい、傾国が始まったのである。
 越の策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。
 その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
2)西施ものがたり  李白がよく取り上げた題材
111−1 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111−1> T李白詩1290 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4998
111−2 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111−2> T李白詩1291 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5003

李白の西施の詩句表。
65巻02-06楽府烏棲曲 呉王宮里醉西施。
195巻五 28子夜?歌 ( 一作子夜四時歌 ) 夏歌鏡湖三百里。 ??發荷花。 五月西施采。
人看隘若耶。 回舟不待月。 歸去越王家。
210卷六5玉壺吟 世人不識東方朔。 大隱金門是謫仙。
西施宜笑復宜顰。 丑女效之徒累身。 君王雖愛蛾眉好。
218卷六13鳴皋歌送岑?君 時梁園三尺雪 鳳孤飛而無鄰。 (?)?嘲龍。 魚目混珍。 ?母衣錦。 西施負薪。 若使?由桎梏于軒冕兮。
546卷十六49送祝八之江東賦得浣紗石 西施越溪女。 明艷光云海。 未入?王宮殿時。
747巻二十一25西施 西施越溪女。 出自苧蘿山。
829巻二十三03效古二首其二 自古有秀色。 西施與東鄰。 蛾眉不可?。 況乃效其顰。 所以尹?、。
945巻二十四56口號?王美人半醉 風動荷花水殿香。 姑蘇台上宴?王。 西施醉舞嬌無力。 笑倚東窗白玉床。

弟兄協律、自少小學歌、
音楽家系で育ち、その協律のなか家庭に育って、小さい時から歌を学んでいたのである。
15. 弟兄協律、自小学歌 漠の武帝の李夫人は李延年の妹である。李延年は音を知り歌舞を善くしたので、武帝に寵愛されていた。たまたま平陽公主が李延年に妹があると奏したので、武帝が之を召見し、その妙寵にして舞を善くするを見て寵幸し、遂に延年を協律都尉とした(『史記』「外戚世家」)。ここは「兄妹が音楽家という家庭に生まれて、小さい時から歌を学んだ」という程の意。
協律 音楽、音楽を教える。十二律・律動・旋律・音律・楽律・調律。

長生河陽、由來能舞。
それに舞の盛んな河陽において成長したので、舞は無論妙手である。
16. 長生河陽 「弟兄」に対(M)して「少長」といったので、小さい時から成人になるまでそこにいた意。「河陽」は黄河の北、もとの晋の地、漠代は県名となり、今の河南省孟県の西にあたる。鍾露昇氏は「河陽」は「陽阿」の誤りと見ている。「陽阿」は今の山西省晋城県の西北に在り、この地方は舞を善くするものが多かった。『推南子』「倣真訓」に、「足陽阿の舞を既み、而して手線水の趨に会す」、曹糖の「撃篠引」に、「陽阿奇弁を奏す」等の句があり、よって「古人舞を言へは必ず陽阿を挙ぐ。河陽の陽阿の誤りに係るを証すべし」と断じた。然し「河陽」でもわかるので、しばらく一説として挙げておく。
17. 由来能舞 「由来」は元来と同じ。

琵琶新曲、無待石崇、
自ら琵琶の新曲を作るのに苦もなくて、「造新の曲、哀怨の声多し」といわれた晋の石崇を待つまでもないのである。
18. 琵琶新曲、無待石崇 石崇(249−300)は字は季倫、晋の働海南皮の人。元康の初め、刑州の刺史に累遷し、遠使商客を?かして巨富を得、洛陽に金谷園を築き、奢靡の遊にふけり、衛尉に拝せられたが、後趙王倫のために殺された。詩に長じ、「王明君の辞」は『文選』に見え、「其の造新の曲、哀怨の声多し。故に之を紙に叙ぶ」といっている。

箜篌雜引、非關曹植。
それに、箜篌の難曲も、文選に見る魏の曹植を煩わすようなことはない。
19. 堕筏雑引、非閑曹植 「箜篌(くご)」とは、古代東アジアで使われた、ハープに似た撥弦楽器の名。現在は滅んでいる。一に「炊筏」ともいう。二十三絃乃至二十五絃、胸に抱いて両手でひく。「引」は「曲」と同じ。漢の武帝の時、朝鮮の霍里子高の妻麗玉が「箜篌引」を作った。一名「公無渡河」という。『釈名』に、「箜篌は師延の作る所、靡々の楽にして、後は桑間濮上の地に出づ。蓋し空国の侯の作りし所なり。云云」とあり。遂に鄭・衛の音を号して淫楽と称した。曹植(192−232)は字は子建、曹操の第三子、その作る所に「箜篌引」一篇がある。「関」は「関与」の関。或は「由る」と同じ。一に「因」に作る。
楽器。
箜篌引 曹植 魏詩<50>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1993

傳鼓瑟於楊家、得吹簫於秦女。
鼓瑟は(漢)名門楊(ツの)家より伝授され、吹籍は名人秦女(弄玉)より会得したものであるから、いずれも絶妙の域に達している。
20. 伝改悪於楊家 「楊家」は宏の名門。漢の楊怪、字は子幼、華陰の人、官は中郎将に至り、平通侯に封ぜられた。その「孫会宗に答ふる書」に、「婦(巴は題の女なり、雅(も)と善く宏を鼓す」(『漢書』「楊慣伝」)とある。
21. 得吹策於秦女 『釈名』に「古の吹希を善くするものに、秦女弄玉・仙人粛史・漢の元帝・霊帝あり」とある。『列仙伝』によれば、「秦女は穆公の女で清史の妻である。爺史が吹斉に巧みで、よく鳳鴨を為した。秦の穆公、女弄玉を以て之に妻わせ、遂に女に吹爺を教えしめた。後に弄玉は鳳に乗り、策史は龍に乗って飛昇し去った」というのである。

(4)§2-1
至若寵聞長樂、陳后知而不平、
新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。
22. 至君寵聞長楽、陳后知而不平 「長樂」は宮殿の名。秦の興楽官を漢の高祖の五年、修治して長楽宮と名づけた。恵帝以後は、皇后は未央官に、母后は長楽官に居ることになった。従って長楽官は、或は長門宮の誤りかと思われる。「陳后」は漢の武帝の皇后阿嬌。武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来なかった。一方で衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)婦人の媚道を挟むに坐して廃せられ、長門宮に居り、数年にして歿した。母の館陶公主は武帝の姉の平陽公主(中国語版)に「皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうして我が娘を捨てるのだ」と訊いたが、平陽公主は「子が出来ないからです」と答えた。皇后は子が出来るようにと医者に多額の金を使ったが、結局子は出来なかったのであった。(『史記』「外戚世家」)。

畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。
天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。
23. 画出天仙、閼氏覧遥妬至如 「天仙」は天女。美人のたとえ。「閼氏」は匈奴王の嫡妻。桓譚『新論』に、「漢の高祖が匈奴のために平城に囲まれたとき、陳平の計を用いて、一美女を画き、人をやって匈奴の閼氏に示し、此の女を単千に進献して囲みを解かんことを請うつもりであると言わせた。閼氏がこれを見て、己の愛の奪われることを恐れ、遂に単于にすすめて囲みの一角を解かせたので、高祖は逃れ去ることが出来て、危いところを助かった」ことが見えている。
24. 匈奴王の嫡妻 閼氏 紀元前200年、匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、彼を降伏させることに成功した。匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫った。そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高祖は匈奴軍を追った挙句に白登山へ誘い込まれ、7日間包囲された。高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせその間に逃走した。これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹する。

東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微?得陳於甲帳。
或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。
25. 東鄰 東鄰子 宋玉の賦の中に出てくる美人。宋玉《登徒子好色賦》〔「楚國之麗者,莫若臣里, 臣里之美者, 莫若臣東家之子。」後因以"東鄰"指美女。〕李白《白紵辞其一》「北方佳人東鄰子、且吟白紵停告。」
80 《白紵辭其一》index-5 1-5 725年開元十三年25歳 蜀を離れ、襄陽・荊州に遊ぶ。20 首 <80> T李白詩1246 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4778
東隣巧笑来侍寝干更衣 「東隣」は「東家」と同じ。「巧笑」は巧みに愛くるしく笑うこと。東家の美女という程の意。前掲宋玉の「登徒子好色の賦」に見ゆ。司馬相如の「美人の賦」にも、「臣の東隣に一女子あり。恒に勉々として西離し、臣を留めて共に止らんと欲す。垣に登りて臣を望むこと鼓に三年なり」とある。「更衣」は着物を着換える場所。姻賓憩息の所。これは衛子夫が漢の武帝に寵愛せらるるに至った動機をいったもの。武帝が三月上巳の節句に漏水に修疾し、帰途平陽公に遇った時のことである。『史記』「外戚世家」に「是の日武帝起って衣を更ふ。子夫、尚衣に侍し、軒中に幸せらるるを得たり」とある。平陽主の謳者からついに皇后の地位に上るのである。
27 西子微?、得陳於甲帳 「西子」は即ち西施である。「微聾」とは少ししかめ面をすること。『荘子』「天運篇」に、「西施心(柵)を病みて其の里に臍す。其の里の醜人見て之を美とし、帰りて亦心を捧げて其の里に賦す云々」とある。「横陳」は「横臥」と同じ。司馬相如の「好色の賦」に、「花容自ら献じ、玉体横陳す」とある。女子の御寝に侍するを「玉体横陳」という。「甲帳」は「甲乙の帳」と同じ。甲乙の順をつけて作ったとばりの第一のもの。『漢書』「西域伝賛」に、「神明通天の台を立て、甲乙の帳を興造す」とあり、『漢武故事』に、「上、瑠璃・珠玉・明月・夜光、天下の珍宝を雑錯して甲帳を造る。次を乙帳と為す」とある。

陪??娑、騁纎腰於結風、
未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。
28. 陪遊敬婆、騨級腰於結風 「陪遊」は帝の遊宴に随うこと。「?娑」は本来馬の迅疾なるさまであるが、漢の時は宮殿の名としたことが『三輔黄図』に見える。「結風」は旋風と同じ。つむじ風。舞うときの回旋の迅速なるを形容した。傳毅の「舞の賦」にも、「激楚の結風、陽阿の舞」の句がある。

長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。
そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
29. 長楽鴛駕、奏秦声於度曲 「長楽」は「陪遊」と対するから、いつまでも楽しむ意で、ここでは長樂宮のことではない。「鴛鴬」はおしどりであるが、また漢の宮殿の名でもあることが『三輔黄図』に見える。「秦新声」は秦国の音楽。李斯の「諌逐客書」・『史記』の「廉頗蘭相加伝」などに見える。新編の音楽という程の意。「虔曲」は歌曲を按じて歌うこと。張衡の「西京の賦」に、「度曲未だ終えずして雲飛び雪起る」とある。

(5)§2-2
粧鳴?之薄?、照墮馬之垂鬟、
それかと思うと、髪は魏の文帝の宮人、莫瓊樹がなせる蝉の羽のように透けて見えるほどに解きつくした髪型であったり、或は後漢の政治家梁冀の妾孫寿の考案した「愁眉・啼妝・堕馬髻・折腰歩・齲歯笑、以て媚感を為す」とし、特に堕馬の垂髪を照し出したようなものまであった。
22. 粧鳴?之薄? 「?之薄?」は蝉の翼のように透いて見える結髪。? せみの羽のように、透き通って美しく見える鬢。美人の髪。また、美人。?髪。「粧」妝、よそうこと。『古今注』「雑虫」に、「魏の文帝の宮人に絶(はなは)だ愛せられし者莫瓊樹あり、…乃ち蝉髪を製す。之を望めば縹渺として蝉の如し。故に蝉髪と日ふ」とあり、梁の元帝の「顔園の故閣に登る」詩に、「妝成って蝉鬢を理め、笑罷んで蛾眉を飲む」とある。 
23. 照墮馬之垂鬟、 「堕馬」は「堕馬髻」ともいう。頭も当時流行の堕馬髻である。 堕馬髻とは、落馬するときのように、髷が傾いているヘアスタイルのこと。婦人の髪型の名。髪が一方に片よったもの。『後漢書』「梁冀伝」に、その妻孫寿が作ったことになっており、「愁眉・啼妝・堕馬髻・折腰歩・齲歯笑、以て媚感を為す」とある。
孫寿(そん じゅ、? - 159年)は、中国後漢の政治家梁冀の妻。
夫・梁冀が権力を握るにつれ、その妻であった孫寿及びその一族も権勢を振るったが、桓帝により梁冀が粛清された際、連座し粛清された。史書で伝えるところの孫寿は美女であり、当時の女性のファッションリーダーで数々の新しいファッションを生み出したため巷間の子女はこぞってそのファッションを模倣したと言われる。彼女が考案したファッションは「齲歯笑」(虫歯の痛みに耐えながらの笑み)、「愁眉」(愁いを込めた書き眉)、「啼粧」(泣きはらした様な目元)、「堕馬髷」(左右非対称の髪型)、「折腰歩」(腰を折ったような歩き)などと呼ばれたが、良識ある人は、これらを縁起が悪く不吉であるとし、梁冀の没落に関係づけた。

反?金鈿、抽瑶樹。
それに、黄金作りのかんざしをそりまがるように挿し、宝珠作りのこうがいを横につき出して強い自己主張をしている。
24. 反?金鈿 「反」は上向きにそりまがること。「金銅」は黄金で作ったかんざし。
25 抽瑶樹 「横軸」とは横に飛び出すように挿していること。「宝樹」は宝珠で作ったかんざし。その枝あるところから宝樹といった。宝樹は菩提樹のことにもいうが、ここは美しい簪釵のたとえ。

南都石黛、最發雙蛾、
南方の都の地方でとれる石墨で念入りに蛾眉を画き、なによりもさきに、三日月眉、蛾の触鬢が美しい弧を画くのである。
26 南都石黛、最發雙蛾、 「南都」は南方の都。「石黛」は石墨の類。眉を画くのに用いるので石黛という。唐の劉長卿の「楊州雨中張十宅観妓」の詩に、「残妝石黛を添え、艶舞金鈿を落す」とある。明の田芸衡の『留日札』に、「今広東始興県の渓中に石墨を出す。婦女取りて以て眉を画く。画眉石と名づく」とある。「最」は何よりもさきに。「双蛾」は二本の三日月眉。蚕の蛾の触鬢が美しい弧を画くによって、美人の眉にたとえる。

北地燕支、偏開兩靨。
北方産のものである燕脂でひたすら両頬の靨鈿をくまどり、飾っている。
27 北地燕支、偏開兩靨 「燕脂」はべにをとる草の名。もとは山の名で紅草を産する所からこの名がある。燕脂の文字から「北地」といって「南都」と対にしたものである。『古今注』に、「西方の土人、以て紅を染むるを燕支と為す。中国の人は之を紅藍と謂ふ。以て粉を染めて婦人の面色と為す」とある。「偏」はひとえに。ひたすらに。「開」は発と同じ。「両靨」は両頬のえくぼ。えくぼの辺を飾るのを「靨鈿」という。『丹鉛録』には、「晋の唐韋固の妻が少時盗賊のために顔をきられたので、これをかくすために翠を以て之を掩ったことから、女の粧に靨飾かはじまった」と見える。

亦有嶺上仙童、分丸魏帝、
舞容の??たることは、山上の仙童が魏の文帝に丸薬を与え、「羽翼を生ず」といったことにひとしいほどである。
28 嶺上仙童、分丸魏帝 魏の文帝の《折楊柳行》「西山一何高。高高殊無極。上有兩仙僮。不飲亦不食。與我一丸藥。光耀有五色。服藥四五日。身體生羽翼。輕舉乘浮雲。?忽行萬億。流覽觀四海。」に、「西山一に何ぞ高き。高高殊に極り無し。上に両仙童有り。飢ゑず亦食はず。我に一丸薬を与ふ。光耀五色有り。服薬両三日、身軽くして羽翼を生ず。云々」とある。「丸」は丸薬である。

腰中寳鳳、授?軒轅。
そして、簫の笛の吹奏の巧妙なるは、仙界の宮女らが腰中の宝鳳を黄帝が伶倫に命じて律を作らせたもののように、その律暦があざやかなものである。
29 腰中宝鳳、授暦軒轅 「軒轅」は黄帝の名。『漢書律暦志』によれば、黄帝が伶倫に命じて律を作らせたものが、?谷の竹を取って十二筒を作り、鳳凰の鳴声を聴いて十二律を制したというものである。十二律を十二月に配し、それぞれの月の異名とした。故に律と暦と深い関係があるのでここでは律の意味で暦と言っている。「腰中」は「山頃上」と対挙したもので、笛筒は腰中に挿む所からいったもの。「最上仙童」の一句は宮女の舞う姿が身軽で、羽翼を生じて空中に??したる仙女の観あるを形容し、「腰中宝鳳」の一句は宮女の吹簫の鳳鳴して妙なること、昔、黄帝に律暦を授けたるに似ていると形容したものである。

*〔以下更に「玉臺新詠」の詩歌の選定に対して、麗貌と舞容とを反復形容し、甘泉・陽台の二句に至っては、帝寵を檀にすることを述べたものである。〕

(6)§2-3 
金星将?女爭華、麝月與?娥兢爽。
金星の黄色のおしろい「花黄」「花鈿」は須女と其の華やかさを争ったといい、彎々たる麝月の眉は嫦娥とさわやかさを競うというものである。
22. 金星将?女爭華 「金星」は宵の明星。錘露昇氏は、「金星は当時の女子の貼する所の「花黄」「花鈿」であるといい、陳の張正見の「艶歌行」の「金を裁して小靨を作り、麝香を散じて微黄を起す」、梁の簡文帝の詩の、「黄を約して能く月に効ひ、金を裁して巧に星を作る」を証としている。「花黄」は女子の化粧品の一つで、頬、額につける黄色いおしろい。「将」は「与」と同じ。一に「与」に作る。李白の「月下獨酌四首其一」の詩句「暫伴月將影,行樂須及春。」(暫く月と影とを伴うて,行樂、須らく春に及ぶべし。)の「将」と同じ。「?女」は須女ともいい、別に「女宿」ともいう、星の名。須女という名の機織り娘。玄武の亀身あるいは蛇身。『史記』の「天官書」に、「?の四星は天の少府なり。布巾の我製・嫁要を主どる」とある。
23. 麝月與?娥兢爽 「麝月」は、三日月、普通月を示すことから、月は女性、鍾露昇氏の、「女子の双眉を指す。其の細くして彎【ひか】れる形の初月の如きを言ふなり。麝は形容の詞となす。麝香の其の香気有るに取るなり」といっているのに従う。「与」は一に「共」に作る。「嫦娥」は「?娥」と同じ。『淮南子』「冥覧訓」の注「譬若?請不死之藥於西王母,?娥竊以奔月,悵然有喪,無以續之。何則?不知不死之藥所由生也。」とあり、「?娥」は?の妻なり。?不死の薬を西王母に請ふ。未だ之を服するに及ばずして、?娥盗んで之を食ひ、仙なるを得て、奔りて月中に入り、月の精と為る」とある。「爽」はさわやか。「美」とほぼ同じ。

驚鸞冶袖、時飄韓掾之香、
そして、舞う姿にあたっては、鸞鳳の驚くに似たなまめかしい袖があり、時々晋の韓掾の名香をひるがえしたようである。
24.  驚鸞冶袖、時飄韓掾之香 「驚鸞」は驚いてとびたつ鳳鷲。美人の軽快に舞う姿にたとえた。「冶袖」はなまめかしい袖。「韓掾」は晋の韓寿。司空操を賜わったから、韓按ともいう。韓寿のことは『晋書』「賀充伝」、『世説』「惑溺篇」及び『豪求』「韓寿窃香」の条に見えている。要約すれば、「韓寿は晋の堵陽の人、姿美わしく、賈充に辟されて司空の掾(属官)となった。さて、充の末娘賈午というものあり、これを見て喜び互いに慇懃を通じたが、折から西域の名香を天子に献じたので、天子はこれを貴び、ただ賈充と大司馬陵騫だけに分賜された。賈午は父の名香を竊んで韓寿におくった。それを知った賈午は事の世にあらわれるのを欲せず、ついに女を以て韓寿にめあわせた。
韓 壽(かん じゅ、生年不詳 - 300年)は、西晋の人物。魏の司徒韓曁の曾孫。賈謐の父。韓王信の子孫とされる。字は徳真。南陽堵陽(河南省方城県)の人。西晋恵帝の外戚。美男であり、賈充の娘である賈午が家で開かれた宴席で一目ぼれし、韓壽の元使用人の女中に取り持ってもらい密通した。賈充は武帝拝領の香を韓壽が使っていたので娘の密通を知り、結婚させた。賈充の司空掾となり、恵帝が即位すると散騎常侍・河南尹となった。元康の初に死去し、驃騎将軍を追贈された。300年4月、兄の韓保、弟の韓豫、韓鑒、韓蔚は賈皇后の廃后の際に全員誅殺された。

飛燕長裾、宜結陳王之佩。
燕の飛ぶに似た長い裾襟 は 魏の陳思王曹植の玉珮を繋けるにふさわしいものである。
25. 飛燕長裾、宜結陳王之猟 「飛燕」は燕の飛ぶように身のこなしの敏捷なこと。漢の成帝の皇后趙氏は弱骨豊肌にして歌舞を善くし飛燕とよはれ、ここは驚鷲と対挙したものである。魏の張燕も身軽であったから飛燕とよばれたのが、よき証左である。「長裾」は衣服の襟から下まで。『正字通』に、「裾は襟より以下皆之を裾といふ」とあり、『説文通訓定声』には「裾は衣の前襟なり」とある。普通着物のすそを「裾」というが、ここではこれに当たらない。「陳王」は陳思主曹植。「陳王之佩」とは、曹植の「洛神の賦」に、「玉珮を解いて之に要(もちい)る」とあるのを典故としている。

雖非圖畫、入甘泉而不分、
それは、絵にかいたほどの美人ではないが、もし描けば、甘泉宮に入った武帝妃の李夫人の名画と上下を分かち難いのである。
26. 維非図画、入甘泉而不分 「甘泉」は宮殿の名。もと秦の離宮であったのを、漢の武帝が通天。高光・迎風の三殿を増築した(『史記』「封禅書」)。漢の楊雄に「甘泉の賦」がある。武帝の寵愛した李夫人が早く亡くなったので、武帝は憫念して肖像を画かせ甘泉宮に掲げた。
李夫人:延年妹 人名。生卒年不詳,漢中山(今河北定縣)人,漢武帝寵妃,李延年妹。容貌美麗,善於歌舞。生昌邑哀王,早卒,武帝曾作賦悼念。兄李延年は美人の妹を武帝に売り込むため、詩をつくって自ら歌ってみせた。それが有名な《絶世傾国の歌》「北方有佳人、絶世而獨立。一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得。」(北方に佳人有り、絶世にして獨立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや 、佳人は再びは得がたし。)売り込みは大成功で、李延年の妹は武帝の夫人として召され、他の兄たちも要職を得て出世した。ところで、武帝に愛されたのは李夫人だけではなかった。傾国と例えるのに相応しい美人だった李夫人の兄、李延年自身もまた絶世の美男だった。武帝は李夫人を慈しみ、男子をもうけつつ、同時に李延年をも寵愛し、夫婦のように起臥を共にしていた。李夫人は不幸にして夭折してしまい、死に瀕して容色衰えた自分の顔を武帝に見せることを頑なに拒んだと伝えられる。

言異神仙、戯陽臺無?。
楚の懐王が高唐で逢った、神仙瑤姫とは異なるといっても、陽台の下に戯れてはそれととんと区別ができないということであろう。
27. 言異神仙、戯陽台而無別 ・「陽台」は地名で、今の湖北省漢川縣の南。宋玉の「高唐の賦」に、「昔、先王(楚の懐王)嘗て高唐に瀞び、怠りて昼寝ぬ。夢に一婦人を見る。日く、『妾は巫山の女なり。高唐の客と為る。聞く君高唐に游ぶと。願はくは枕席を薦めん』と。王因りて之を幸す。去るに辞して日く、『妾は巫山の陽、高丘の岨に在り。旦には朝雲と為り、暮には行雨と為り、朝々暮々、陽台の下にあり』と。旦朝之を視れば言の如し。故に為に廟を立て、号して朝雲といふ」とある (『文選』)。陽臺とは 男女の密会・情交のたとえ。「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」とも。《語源》楚 (ソ)の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と情交を結んだという故事。陽臺:宋玉高唐賦「朝朝暮暮,陽臺之下。」、朝は雲に、夕方は雨になると告げて姿を消 した。一段雲:宋玉『高唐賦』「昔者楚襄王與宋玉遊於雲夢之台,望高之觀,其上獨有雲氣,?兮直上,忽兮改容,須臾之間,變化無窮。」
宋玉『高唐賦』「昔者楚襄王與宋玉遊於雲夢之台,望高之觀,其上獨有雲氣,?兮直上,忽兮改容,須臾之間,變化無窮。王問玉曰:"此何氣也?"玉對曰:"所謂朝雲者也。"王曰:"何謂朝雲?"玉曰:"昔者先王嘗遊高唐,怠而晝寢,夢見一婦人曰:'妾,巫山之女也。爲高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。'王因幸之。去而辭曰:'妾在巫山之陽,高丘之阻,旦爲朝雲,暮爲行雨。朝朝暮暮,陽臺之下。'旦朝視之,如言。故爲立廟,號曰朝雲。」
李白《巻五 33搗衣篇》
瓊筵寶幄連枝錦,燈燭??照孤寢。
有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。
摘盡庭蘭不見君,紅巾拭?生氤?。
明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。
瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 ??として 孤寢を照らす。
便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。
庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 ?を拭うて 氤?を生ず。
明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。
292-#4 《巻五 33搗衣篇》-#4Index-21U― 16-741年開元二十九年41歳 <292-#4> T李白詩1585 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6473

(7)§2-4
〔以下、更に「玉臺新詠」の詩歌の選定に対して、麗貌と舞容とを反復形容し、甘泉・陽台の二句に至っては、帝寵を檀にすることを述べたものである。〕?§2-3のつづき


眞可謂傾國傾城、無對無雙者也。
まことに傾国といおうか傾城といおうか美人ではある、比類なき無双の美人というべきものである。
28. 傾国傾城 一国を傾けても居ない、一城を傾けても見つからない程の美人。今日は男をして国や城を亡しても顧みない程の美人と説くけれどここでは単に美人を言う。娼妓・遊女をいうようになるのも後世の転義。また一国一城の人の耳目をそびやかす程の美人の意と見る別解も世に行わる。
29. 無對無雙 一に「無双無対」に作る。「無対」とは対偶するものがないこと。「無双」とは二人とないこと。要するに世にならびない美人のこと。

加以天時開朗、逸思雕華。
それに加えることとして、天資・天性は明朗(賢)にして、俊逸の才思は華彩を生じたのである。
30.  天時開朗 一に「天時」に作り、また「天精」に作る。「天情」 の二字はもと南北朝の習語、「天時」「天晴」「天精」は恐らくは訛誤であろう。「天情」は天資・天性という程の意。「開朗」は「明朗」と同じ。(陶淵明の「桃花源の記」に「豁然開朗」とある。) ここはその心がうち開けて賢明なるをいったものと思われる。『晋書』「胡奮伝」に、「奮、性開朗」とあるのがその例である。
31. 逸恩彫華 俊逸の才藻(文才)あるのをいった。前の「天情開朗」と対である。鐘露昇露昇氏は「天情開朗」を、「才情映発のごとし」と説きながら、「逸恩彫華」を、「瓢逸の思想、修飾の文彩」と二つに分けて解している。対法からいって無理である。ここは「才思絢欄」と同じに見る。

妙解文章、尤工詩賦。
そして、よく文章を理解し、殊に詩賦を作るに巧みである。

琉璃硯匣、終日隨身、
そして、大切な琉璃の硯箱は、終日、身辺に携えておくのである。
32.  琉璃硯匣 「瑠璃」は梵語で青色の宝石。ここは美しい形容に用いた。「硯匣」はすずり箱。

翡翠筆牀、無時離手。
そこには、筆かけに翡翠の筆管は、一時たりとも手から離さない。
33.  翡翠筆牀「翡翠」はかわせみ。また翠緑色をした宝石。亦美しいのにいった。「筆牀」は筆かけ。ここは筆という程の意に用いた。「牀」は元来物を安置する具で、筆牀・墨牀・印牀・琴牀などの例。

(8)
清文滿篋、非唯芍藥之花、
こうして作られた清高の作品は筐裏に満ちていて、ただに、晋の傳統が妻の「芍薬花の頌」に比すべきのみならない。
34. 清文満餞、非惟弓英之花 「清文」は下句と対して、「清・新」を分用した。「筐」は竹製の文箱。原稿などを入れておく。晋の傳統の妻に「芍薬花の頌」があったというが、今は伏して伝わらず、僅かに「傳統伝」に、「UUたる芍薬、此の前庭に植う。晨には甘露に潤ひ、昼は陽臺に晞に(かわ)く」の四句だけがのこっている。

新製連篇、寧止葡萄之樹。
幾多の新作の文章は 漢の張洪茂が「葡萄酒の賦」よりも優れたものであるのである。
35. 新製連篇、寧止蒲萄之樹 「新製」は新しい作品。「連篇」は篇数の多いこと。「蒲萄之樹」は鐘露昇氏は前涼の張洪茂の「葡萄酒の賦」としている。

九日登高、時有?情之作、
九月九日、重陽の節句には、高い処に登り菊花の酒を飲むにあたっては、時節に合ったやさしき抒情の詩が出来ているのである。
36. 九日登高、時有縁情之作 九月九日は重陽の節句で、高い処に登り菊花の酒を飲むならわしである。「縁情」は感情の動くままにの蕃U陸機の「文賦」に、「詩は情に縁りて綺靡、賦ほ物を体して劃亮たり」とある。杜甫、
登高 重陽には高い丘に登ることを言う。この園の高処にのぼるをいう。

《卷一二58  九日》「去年登高?縣北,今日重在?江濱。」(去年 高きに登る ?縣の北,今日 重ねて在る ?江の濱。)


《卷一七25 九日(登高)諸人集於林》 「登高明朝是,相要舊俗非。」(高きに登る 明朝 是なり,相い要うるも舊俗非なり。)


《卷一九18又上後園山?》「秋風亦已起,江漢始如湯。登高欲有往,蕩析川無梁。」(秋風 亦た已に起る,江漢 始めから 湯の如し。高きに登りて 往く有らんと欲し,蕩析して川に梁無し。)      


《卷二○49九日五首其四》「 故里樊川菊,登高素?源。」(故里樊川の菊,高きに登る 素?の源。)


《卷二○九日五首其五登高》「風急天高猿嘯哀、渚清沙白鳥飛廻。」(風急に天高くして 猿嘯哀し、 渚清く沙白くして 鳥飛廻る。)



萬年公主、非無累コ之辭。
晋の万年公主が、父武帝のために寵姫左貴嬢の早世を悼んで作った作品のような生前の徳をたたえた如き名文がなくもないということである。
37. 万年公主、非無累徳之辞 「万年公主」は晋の武帝の女。「累徳」は徳を績みかさねる意。晋の武帝の左貴妃嬪は名を芬といい、少くして学を好み、善く文を属したが、早く卒したので、帝痛悼して己まず、万年公主に詔して誄(哀悼文)を作らせ、その生前の徳行を偲ばれた。その文には左貴妃嬪の徳を形容称賛してある。一説に「累」は一に「誄」に作る。誄を作り徳行を叙べるから「誄徳之辞」といったと見るものがあるが、熟語としては生硬な感がある。

其佳麗也如彼、其才情也如此。
とにかく、その容姿の麗しいことは前述の如くであるが、その才情の豊かなこともかくの通りなのである。

(9)§3-1
(詩経の雅頌に比しても優れた詩歌を昼夜分かたず撰編し、10巻になった。)

?而椒宮宛轉、柘觀?岑。
かくて椒房の殿角さえもまろやかにまがり、柘館の管陰は高大深邃なものである。
34. 既而 この「既」は上に述べたることを前提にして下を言い起こす辞。乃ち、もとより、という意。『詩経』「大雅鳧?篇」、《鳧?》(ふえい)、生民の什「鳧?在、公尸來燕來寧。 爾酒既清、爾?既馨、公尸燕飲、福祿來成。」(鳧? に在り、公尸 來り 燕し來り寧んず。爾の酒 既に清く、爾の肴 既に馨し、公尸 燕飲して、福祿 來り成る。」とあるのがその例である。「而」の字があるので、軽い転接の詞として「かくて」と訳す。
35. 椒宮宛轉 「椒宮」は一に「椒房」に作る。同じ。「椒房」は@皇后の御所。A皇后・皇妃の別名。山椒を泥にまぜて塗りこむからいう。山板は暖気を与え悪気を除く効果があり、実を多く結ぶので子孫の多いことを祝する意味がある。椒房殿は未央官に在った。「宛転」は攣曲のさま。曲折の貌。「椒」は山椒(さんしよう)、「房」は室の意。中国で皇后の御所の壁に邪気を払うためと、実の多いことにあやかり、皇子が多く生まれるようにと、山椒を塗り込めたり、庭に植えたりしたところからこの名があるという。
36. 柘觀?岑 「柘館」は漢の上林官の館名。「?岑」は高大深邃なさま。駱賓王の「帝京篇」にも、「桂殿は陰岑として玉楼に対す」の句がある。

絳鶴晨嚴、銅蠡晝靜。
早朝、宮門の紅鶴は厳重に鎖され、白昼になっても、門上の銅環は音もなく静かである。
37. 絳鶴晨嚴 「緯鶴」は紅鶴で、錘露昇氏は江総の文に「鶴籥晨に啓く」とあるから、宮門の鎖籥が鶴の形をしているのだと見た。江総の文は「陳の六宮を為るの謝表」に、「鶴籥晨に起り、雀釵 暁に映ず」とあるのをさし、文に異同があるが、鶴籥は鶴の笛と解されている。然し陳子良の「王季卿の為に王仁寿に与ふる書」には、「?に龍樓に侍し、預りて鶴籥に陪す」とあり、鍾説に従う。
38. 銅蠡晝靜 「銅蠡」は「鋪首」ともいって、門扉に著けて環を銜える銅製の金具である。「駢雅釈宮」に、「鋪首は門錯なり」とある。鍾霹昇氏は銅蠡の起こりについて、「風俗通に、『公輸班、水中の蠡を見て、引いてその戸を閉づるに、終に開く可からず。遂に之を像にし門戸に立つ』とあり」と記している。一種の門の飾りともなっていたらしい。「緯鶴・銅蠡」の二句は、掖庭の扉は常に開かれているのではなく、日中の出入りにも、やかましい音を立てるのを禁じてあるのをいった。

三星未夕、不事懷衾、
未だ三星の輝く薄暮になるというのに、布団を抱いて御寝に侍する準備もないのである。
39. 三星未夕、不事懷衾 この句は『詩経』「召南小星篇」に本づく。「?たる彼の小星は、三五東に在り。粛々として宵征く。夙夜公に在り、寔に命同じからず。」「?たる彼の小星は、維れ参と昂と。粛々として宵征く。衾と?とを抱く。寔に命同じからず」とある。序には、「夫人妬忌の行無く、恵賤妾に及ぶ。君に進御するに、其の命、貴賎あるを知りて、能く其の心を尽す」とあり、朱子もこれに従っている。後世、小星を妾のことにいうのはこの解に本づく。然し王質の『詩総聞』には、「君子、王事を以て役に行き、婦人之を送る。星を指すは、是れ夜に入るなり」といい、方玉潤は行役者の作とし、「衾と?とを抱く」をさして、「もし比の句をして閨閤の詠たらしめは、亦青楼枕を移して人に就くの意、豈深宮、君に進御するの象ならんや」と旧説を否定している。徐陵の意は勿論序に従って説かねばならない。「三星」とは、「三・五東に在り」を受けて、星数の少ないのにいった。三・五東に在るのはこれ初昏の時である。「三星未夕」とは未だ三星の輝く薄暮に至らない意。『詩経』「唐風綢繆篇」には、「綢繆薪を束ぬ。三星天に在り」の句があり、『毛伝』では参星が東方にあらわれた初昏の時と見、『鄭箋』では三星を心星としている。一説にはこの篇に本づくとする。亦通ずるが、下旬に考えて、姑らく前説に従う。「不事懐余」は「小星篇」の「余と禍とを抱く」から来ている。「衾」は夜具、「?」はひとえのふとん。これを抱くのは君に進御するためだというのが旧説。(新しい解釈では征夫の野営用の毛布の類と見る。徐陵の意は勿論旧説によらねばならない。)

五日猶?、誰能理曲。
五日の輪番の期はまだ遠いから、誰が清曲のおさらいをするものがあろうか。
40. 五日猶?、誰能理曲 「?」は一に「餘」に作る。「?」ははるかなこと。一御に五日を期としていたことは、『詩経』「小雅采緑篇」に、「五日を期と為す」とあり、『毛伝』に、「婦人は五日にして一御」とある。「理曲」とは、枚乗の「雑詩」に、「燕趙に美人多し。美なる者は顔玉の如し。羅裳の衣を被服し、戸に当って清曲を理む。音響一に何ぞ悲しき。絃急にして柱の促すを知る。情を馳せて巾帯を整ふ。沈吟柳か尉拭。双飛燕の為に、泥を衝んで君が臣に巣つくらんと恩ふ」の意をふまえている。従ってここは、「五日ごとに輪番で進御に上るので、その間がまだ違いから、絃声を急にし清曲のおさらいをする者もない」の意。

優?少託、寂寞多閨B
ただ、安閑と日を度り、情を寄せる所もなく、寂寞として職事もないから閑暇な時が多い。
41. 優?少託、寂寞多閨@「優?」はのんびり遊びくらすこと。「少託」は(趣味・技芸等)他に自分の心情をよせるものも少ないこと。「寂寞」はさびしいこと。「多閨vは何の職事もなくひまをもてあますこと。

厭長樂之疎鍾、勞中宮之緩箭。
時を知らせる長楽宮の疎鐘の音も聴くにいとわしく、内寝の水時計の目盛りの箭も見るのが億劫である。
42. 厭長樂之疎鍾 「長楽」は宮殿の名。未央官の東隅に在った。長楽宮で時をしらせる鐘の声を聴くのもうとましい意。
43. 勞中宮之緩箭 「中宮」は内寝をいう。「緩箭」は緩やかに上りて水時計の目盛りをさす矢。「労」は億劫なこと。水時計の日盛りを見るのも億劫であるという意。

(10)§3-2
纎腰無力、怯南陽之擣衣、
妖艶な細腰は美しいが力なく、南陽の張魯は女児の搗衣を学ぶを悟らなばならない。
44.  纎腰無力、怯南陽之擣衣 「纎腰」は一に「軽身」に作る。「無力」はなよなよとして華香なこと。「南陽」は秦漢の郡名。河南省南陽府・湖北省蓑陽府一帯の地。「擣衣」は梼衣・搗衣に同じ。きぬたをうつこと。『水経注』に、「漢水の南に女郎山あり。上に女郎家あり、下に女郎廟及び梼衣石あり。張魯の女なりと言ふ。小水北流して漢水に入る」とあり、司馬彪の『郡国志』に、「梁州の女郎山は、張魯の女の衣を石上に浣(あら)へるに、女便ち懐朶して二龍を生む。女の死して将に残せんとするに及んで、柩車忽ち騰躍して比の山に升る。遂にここに葬る」とある。旧注は刑州記によって、南郡稀帰県にある屈原の姉、女須の覇及び鴇衣石を以てこれに充て、鍾露昇氏はこれによって「南陽」を「南郡」の誤りとするが、「南陽」は南山の南、洪水の北によって名を得て居り、前記の如く、張魯の女の故事とすれば「南陽」でよいと思われる。

生長深宮、笑扶風之織錦。
深宮の中に生長して、扶風(陝西省)の蘇意が織錦の詩を笑う。
45. 笑扶風之織錦 「扶夙」は郡名。漢の郡治は今の駅西省威陽県の東、晋では漢陽県の西北に移っているが、いずれにしても今の陝西省。「織錦」は錦に織ったといわれる蘇意の「回文詩」をさす。蘇意は前奏の符堅の時の人、隣留の令、武功の道質の三女、名は若、字は若蘭、賛治の妻である。賓は符堅の腹心として顕職を歴任していたが、後に有名な妓女趙陽台を寵するや、宸ヘ嫉妬のあまり之に捶辱を加えたので、賓も怒り、安南将軍として襄陽に赴任する時、ひとり陽台のみを供して蘇氏との音問を絶った。のち蘇氏も恨悔して回文の詩を作って之に寄せた。その詩は縦横八寸の錦に認めたもので、縦横反覆皆章句を成し、名づけて旋磯図といった。賓もその妙絶に感じて、陽台を送りて關中にゆかしめ、再び蘇氏をよび迎え、これより恩好いよいよ厚かったという。今その図は手近なところで王?運の八代詩選・丁福保の八朝全詩(全漢三国晋南北朝)に載せている。縦横二十九字、題詩二百余首、文字の数は八百四十一字、五色に染めわけてあり、これをいろいろに読むことによって三言より七言に至る凡そ三千八百余首になる。その工巧無比、殆んど神技に近いといわれる。「笑」とは嘲笑すること。

雖復投壺玉女、爲歡盡於百嬌、
たとい玉女の投壷の妙技も、これを見物するのは育矢を往返することに終わるのみである。
46. 雖復 「雖」の字は「心賞窮於六等」までかかる。この場合、「たとい」か「もし」とよむがよい。『礼記』少儀の「推論退可也」の疏に、「経は仮令なり」とあり、『儀礼』士昏礼の「維無梯腰先」の注に、「若し或は梯無くは腰を先にして之を客とするがごとし」といっている。
47. 投壺玉女、為観尽於百験 「観」は一に「歓」に作る。観は見物すること、歓は喜ぶこと。「嬌」は一に「驍」に作るが「矯」の誤写と思われる。「投壷」は古礼の二宴会の席で一つの壷に賓主が矢を投げ入れ、勝ったものが負けたものに酒を飲ませる遊戯。『礼記』「投壷篇」にやり方が詳しく述べてある。『事物紀原』に『西京雑記』を引いて、「漠武の時、郭舎人投壷を善くし、竹を以て矢と為し、嫌を用ひず。古の投壷は中るに取りて還るを求めぎりしが、郭は則ち矢を致して還らしむ。之を験といふ。博の碁を輩中に立て駐傑と為すが如きを言ふなり。今投壷の竹矢を用ひ、激遠を為すを鋲と為すは郭舎人より始まる」といっている。鍾露昇氏は、「京王公が玉女と投壷し、投ずる毎に千二百矯なりしは『神輿経東荒経』に見ゆ。矯は即ち験。院とは其の矢を激して壷より躍り出でしめ、再び手を以て之に接するなり。屡々投じ屡々還し、一矢百余返して失墜せざるなり」と説いている。

爭博齊姫、心賞窮於六箸。
斉姫の双陸の手錬も、感心するのは六箸の操作だけに止まるであろう。
48. 争博斉姫、心賞窮於大著 「博」は双六の類。「斉姫」のことは未詳。但し、斉国には古より美人を産す。よって美人を斉姫というか。枚乗の「七発」に「越女、前に侍し、斉姫、後に奉ず」とある。「六箸」は一に「大著」に作る。古の博具。『説文』(河)に、「六博は局戯なり。六著は十二棊なり」とあり、『西京雑記』四に、「許博昌、陸博を善くす。賓嬰之を好み、常に居処を与にす。云々。法六等を用ひ、或は之を究と謂ふ。竹を以て之を為る。長さ六分」とある。「投雫争博」の二事は、たとい玉女・斉姫の妙技に対しても、宮女たちはさほど感心賞嘆しない意を述べた。

無怡神於暇景、唯屬意於新詩。
真に心をこめるのは、暇日に恰ばすものはないから、工夫を新詩に凝らすというものである。
49. 無怡神於暇景 「暇景」は「暇日」と同じ。ひまなこと。「怡神」は心をよろこばすこと。

庶得代彼?蘇??愁疾。
したがって、これこそ皐蘇のかわりに、彼女たちの愁悶を除去することが出来ようというものである。
50. 庶得代彼?蘇??愁疾 「皐」は本集には「萱」に作る。萱は忘れ草。「葬蘇」は「白苔」ともいう。木の名。『山海経』「海山経」に、「侖着の山に木あり、其の状穀の如くして赤理あり、其の汁は漆の如く、其の味は飴の如し。食ふ者は飢ゑず、以て労を釈く可し。其の名を白苔と日ふ」とあり、注に「或は皋蘇に作る」と記す。王朗の「銃の太子に与ふる書」に、「奉読歓笑、以て飢渇に籍く。復た萱草の憂を忘れ、皐蘇の労を釈くと蛙も以て加ふるなし」とある。「露」は除くこと。新詩こそ奉蘇のかわりに官女たちの憂愁を除き得ることを述べた。

(11)§3-3

但徃世名篇、當今巧製、
こうして、これまで生まれた幾多の名作を、前代の名文に、当今の佳作を選定し編纂した。

分諸麟閣、散在鴻都。
そしてそれらは、すべて麒麟閣に分蔵したし、儒林伝にいう、鴻都門より、分散して蔵弄されたのである。
51.分諸麟閣 「麟閣」は麒麟関で、漢の殿名。未央官の左にあり粛何が建てたといわれ、秘書を蔵した所。「分」は分蔵すること。
52. 散在鴻都 「鴻都」は漢代、宮門の名。其の内に学を置き、書を蔵した。『漢書』「儒林伝」に、「辟雍殖・東観・蘭台・石室・宣明・鴻都の諸蔵の典第・文章より競うて共に剖散す。」とある。「剖散」は分散して蔵弄すること。

不籍篇章、無由披覽。
しかし、それらの篇章を収拾整理して一本にまとめないと、一般に、閲読する方法もない。
53. 不籍篇章、無由披覽 篇章を収拾して一本としないと一般の人は閲読する方法がない。

於是然脂暝寫、弄筆晨書、
そこで、燈油をともして夜分までも鈔写しつづけ、筆管をとって暁晨に浄書したのである。
54. 燃脂瞑写 「「瞑」はくらいこと、夜をいう。夜燈油をもやしながら写したという意。昼夜を分かたず浄書したということ。
55. 弄筆晨書 筆をとって朝早くから書いた。

選?艶歌、凡爲十卷。
その結果、多くの艶歌を選録して共にまとめて十巻とした。
56. 選?艶歌 「艶歌」はあだめいた歌。六朝の文化でもある。

曽無?於雅頌、亦靡濫於風人。
乃ちこれは、詩経の雅頌の正声をはずかしめるものでもなく、風人温柔敦厚の本旨を乱るものでもない。
57. 曽無?於雅頌 「曾」は「乃」と同じ。「?」ははずかしめること。ここでは見劣りすること。「雅頒」は『詩経』の雅と頌。
58. 亦靡濫於風人 「靡」は「無」と同じ。「濫」は乱ること。「風人」は「詩人」に同じ。『後漢書』「桓栄伝」に「風人の興歌する所以」とあり、『魏志』「陳思王植伝」に、「是を以て殖々穆々、風人之を詠ず」とある。錘露昇氏が「国風の作者を指す」という意味でも深くなる。

渭之間、若斯而已。
乱れたとしても、わずかに黄河にそそぐ水の濁水の水と清流の渭水が合流するように、編纂されたという、ニ水の清濁のへだてがある程度にすぎぬというものである。
59. 渭之間、若斯而己 陝西省の水と渭水の清濁分かるるをいう。その流域が黄土である水が濁り、流域が岩石で安定している渭水は澗水が清流であるが、『詩経』「榔夙谷風篇」に、「控は洞を以て濁る」とあるので、清の乾隆の時、駅西巡撫奉承恩に実地調査をさせた所、『詩経』にある通り、実際は浬水が清く洞水が濁っていたという。

?§4-1 

於是麗以金箱、裝之瑶軸。 
そこでこれに十巻を附添するに黄金の箱を以てし、これを宝玉の軸に被装した。
60. 於是麗以金箱 「麗」は附添の意で、つく。「金箱」は黄金づくりの箱。つまり、十巻を黄金の箱に入れること。
61. 装之宝軸 「装」は被具。表装。装溝。「宝軸」は巻物の軸頭が白玉で出来ているのをいった。

三臺妙迹、龍伸蠖屈之書、
筆者はいにしえ、後漢の三台、蔡?の妙蹟にも比すべきものであるだけに、文字は龍躍り、?屈するの姿勢があるのである。
62.  三臺妙迹 「三台」は三つの役所。漢代、尚書を中台、御史台を憲台、謁者を外台といい、併せて三台といった。この文でいう三台とは三台の官を歴任した後漢の蔡?のことをいった。『後漢書』「蔡?伝」に、「蔡?、侍御史と為り、又持書侍御史に転じ、尚書に還る。三日の間、三台を周歴す」とある。蔡?は後漢の圉【ぎょ】の人、字は伯?、性至孝、博学にして辞章数術天文を好み、音律を操るに妙、書を善くした。官は議郎となり、後、王允の為に獄死した。憙平中(四年)、楊腸と六経文字を奏定し、自ら書して大学門外に建てた。所謂「憙平石経」である。「妙迹」とは立派な筆述で、「憙平石経」の文字をさす。
63.  龍伸蠖屈之書 「蠖」はしゃくとりむし。龍が勢よく飛びあがり、尺蝮が身体を屈曲させたような姿勢がある書。その妙逆を形容した。 

五色花牋、河北膠東之紙。
それは、五色の花模様の詩箋であり、その料紙は河北・膠東の名産である。
64. 五色花箋 「花箋」は花模様のある紙。五色の模様入りの詩箋をいう。
65. 河北・膠東之紙 「河北」は黄河の北、今の河北省一帯。「膠東」は後漢の県名。今の山東省平度県。共に紙の産地。

高樓紅粉、仍定魚魯之文辟惡生香、聊防羽陵之蠹。
高楼紅粉の才媛が念入りに校勘して魯魚の誤りを正し、書中には麝香の薬剤をはさんで一応蛙損を防いである。
66. 高楼紅粉 「紅粉」はべに白粉をつけた美人。「古詩十九首」の第二に、「盈盈楼上女、皎皎当窓?。」(盈盈たる楼上の女、餃々として降魔に当る。蛾蛾たる紅粉の散、赦々として素手を出す)とあるのに本づく。
古詩十九首之二 (2)
67.  仍定魚魯之文 「仍」は「よりて」、「かさねて」、「乃ち」、「尚」、などと用いる。ここは、なお、かさねてという意。「魯魚之文」とは誤った文字ということ。
この文は文章の文でなく、文字の意。「魯魚」は字形の相似て誤りやすいところからいぅ。『抱朴子』「遐覧篇」に、「諺に日く、書三たび写せば、魚は魯と為り、虚は虎と為ると」とある。そこで形の似た字を書き誤るのを魯魚の謬という。同じく文字伝写の誤りを、焉馬、豕亥、帝虎、虚虎、陶陰、温媼という。
68. 辟悪生香 「辟悪」は麝香の別名。蛙が避け嫌うからこの名がついた。梁の簡文帝の「琴筝の賦」に、「影は入る著衣の鏡、裾は含む辟悪の香」という句がある。「生香」は香料の名。麝香の一級品。『本草』「麝」の集解に、「其の香三等あり。第一は生香。遺香と名づく。乃ち麝の自ら剔出せる者なり。然れども極めて得難く、価明珠に同じ。」とある。
69.  聊防羽陵之蠹 「羽陵」は地名。『穆天子伝』に、「天子東巡し、雀梁に次り、書を羽陵に蠹はまる」とあり、江総の「皇太子大学講碑」にも、「羽陵の蠹び、嵩山の落簡は外史の掌る所、広内の司る所」とある。よって書籍の蛙損を「羽陵の蠹」という。

?§4-2
靈飛太甲、高擅玉函、
あたかも漢の武帝が西王母より得たる二つの書物を授かり、それにより霊飛六甲の神符を占有して他人の手の届かぬ場所に、玉白石の箱に入れた。
70. 霊飛太甲 「霊飛」は道教の経名、霊飛経と同じ。神霊を招く方法を記録した秘書であるとされるが、道教神仙の徒たちが身に帯びている「 信」 、即ち呪符だとも言い伝えられている。
六朝時代の偽作 班固『 漢武帝内伝』では、西王母がはるばる都に漢の武帝を訪ねてくる話になっている。武帝は西王母に叩頭して、なおも不死の教えを請うた。これに対して西王母は同伴の上元夫人と一緒に「 五岳真形図」と「 五帝六甲霊飛等十二事」の二つの書物を授けて立ち去った。この二つの書物は明らかに当時の道教のもの、いわゆる「 秘書」であり、それを焼失以前に漢の武帝があらかじめ「五岳真形図」のことを董仲舒に、「 五帝六甲霊飛等十二事」を方士の李少君に伝えておいたという。後世、前者は山に入る時に、邪鬼悪霊を祓うために体に帯びる護符とされて、後者は神霊を招く方法を記録した秘書であるとされるが、道教神仙の徒たちが身に帯びている「 信」 、即ち呪符だとも言い伝えられている。要するに、少なくとも六朝時代になって、西王母は時代の推移と一 緒に変化し、道教の長生思想・ 不老不死の神仙代表になったのである。この観念の起源は、後漢時代に遡れるのである。
「太甲」は甲子・甲寅・甲辰・甲午・甲申・甲戊のたい六甲のこと。道教に六甲霊飛経がある。『洪武内伝』に、「上元夫人、六甲霊飛十二事を以て、封するに白玉の函を以てす」とある。「霊飛経」は道教経典の名称で、『上清瓊宮霊飛六甲左右上符』に収録されている。「霊飛経」は唐代でも指折りの小楷字体の名筆として著名であり、名を示す款はないものの、元の袁桷、明の董其昌ともに、鍾紹京の書であると断じている。
太甲は、殷の4代目の王。天乙の孫、中壬の甥にあたる。天乙の後をすぐに継いだという説もある。 『孟子』や『史記』などには、太甲の即位時に伊尹が「伊訓」「肆命」「徂后」といった文を作り、太甲に施政の心得として奉ったことが記されている。しかし太甲は暴虐だったため、伊尹は太甲を即位3年目に桐に追放した。
71.  高擅玉函 「擅」はよりたもつ。(拠有)。「玉函」は玉の箱。『漢武内伝』に、「武帝西王母の真形六甲霊飛の十二事を受く。帝盛るに黄巾の几を以てし、封ずるに白玉の函を以てす。」とある。

鴻烈仙方、長推丹枕。
それに、准南王劉安が鴻烈の仙方を人知れず長く丹枕の下に隠して置いたようにして珍蔵することにしたのである。
72. 鴻烈仙方 『淮南子』に鴻烈訓がある。「鴻」は大、「烈」は明の意で、大明道の言の意だという。「仙方」は仙人となる秘法。
73. 長推丹枕 張華の『博物志』に、「准南王劉安に謀反の嫌疑あり、劉徳に命じ、之を査弁せしめたるに、枕中鴻宝の秘書を得たり。劉徳の子劉向・劉咸これを読むに、信に丹砂黄金を錬れば、凡人も神仙と成る可し」とある。この「鴻宝の秘書」といぅのが、『淮南子』鴻烈訓の類をさすものと思われる。「長推」は永蔵の意。

至如牛帳裏、餘曲?終、
これぞ青牛の図が刺繍されているとばりというものであり、古来の楽曲歌唱が、もうすでに終わって感激したようなものである。
74. 青年帳裏、余曲未終 「青牛」は黒毛の牛。老子が乗ったと伝えられる。「牛帳」は青牛の図が刺繍されているとばりである。すこし後の時代ではあるが唐の駱賓王の「帝京篇」に、「丹鳳朱城白日暮れ、青牛紺?紅塵度る」とある。とばりに青牛を刺繍した例である。「余曲」は昔から伝わっている楽曲。『史記』「楽書索隠述賛」に、「音を審にして政を知り、風を観て俗を変ず。端しきこと貫珠の如く、清きこと叩玉に同じ。洋々として耳に盈つ、咸英の余曲」とある。既終」は一に「「未終」に作る。下の 「新赦巳尭」と対としてみれば、「未終」がよいという説もある。

朱鳥窓前、新粧已竟、
南の方の神である紅鳥の窓前にあり、髪を梳き新たに化粧さえもすでに終わってしまったようである。
75. 朱鳥窓前、新妝已寛 「朱鳥」は赤色の鳥。朱雀。南方の神という。王延寿の 「魯霊光殿の賦」に、「朱鳥翼を舒べて以て衝に峙ち、騰???して榱を遶る」とある。又、鳳も朱鳥という。漢代の宮殿に朱鳥殿というのがあって、張興の「西京の賦」に見え、李善の注に、「漢の官闕名に麒麟殿・朱鳥殿有り」とある。「朱鳥窗」は朱鳥?と同じ。張華の『博物志』巻第三に、「漢の武帝仙道を好み、名山大沢に祭祀して以て神仙の道を求む。時に西王母、使を遣はし白鹿に乗り、帝に当に来るべきを告ぐ。乃ち九華殿に供帳して以て之を待つ。七月七日夜、漏七刻、王母紫雲の車に乗りて至る。(中略)唯帝王母と対坐するのみ。其の従者皆進むを得ず。時に東方朔窃かに殿南の廂、朱鳥の?の中より母を窺ふ。母之を顧み、帝に謂ひて日く、比の?に窺ふ小児は、嘗て三たび来りて吾が此の桃を盗めりと。帝乃ち大に之を怪しむ。此より世人、方朔を神仙と謂へり」とある。
『漢武故事』にも略々同じことをのせ、「朱鳥窗」に作る。「新妝」はあらたによそう。つくりたての化粧。劉遵の「繁華応令」に、「蛾眉?んぞ嫉むむを須ひん、新妝逓ひに宮に入る」、王訓の「応令、舞を詠ず」の詩に、「新妝本と絶世、妙舞亦仙の如し」とある。「已竟」は「もはや済んで」。

方當開?縹帙、散此?繩、
そうなると、はじめてこの書帙を開き、この書帯をほどきひらくのである。
76.  方當 「方」ははじめて。方纔。今し方,たった今.
77.  開?縹帙 「?」は「此」と音通。「縹帙」は、はなだいろのほんづつみ。転じて書巻をいう。「帙」は書衣。
78 散此?繩 「散」は開と同じ。「?」はくみひも。絛と同じ。「?繩」は「書帯」をいったもの。

永對翫於書幃、長循環於纎手。
それから、永くあいだ書斎の中で相対して玩賞するのであり、長く引き継がれるべきは、宮人のような繊手のものに反復誦読されるべきものである。
79.  永對翫於書幃 「対翫」は向かいあってめでよろこぶ。相対して愛翫すること。「書緯」 は書斎のとばり。書緯に同じ。要は書斎の中でというほどの意。
80.  長循環於纎手 「長」は久しく。長時間。「循環」は反復して窮まらないこと。『史記』「高祖本紀」の贊に、「三王の道、循遍の終りて復た始まるが若し」とある。「繊手」は細い手。宮女の細い手中に倦むことなく反復誦読されること。


漢武帝内伝 上元夫人 授六甲霊飛十二事
漢武帝内伝班固漢の武帝の前に西王母が降臨し、神仙の道を説く
[十二]武帝、上元夫人ヨリ六甲霊飛十二事ヲ授カル
 夫人乃ち席を下りて起立し、手に八色の玉笈鳳文の蘊を執り、帝を仰いで、祝して曰く、九天浩洞にして太上耀霊たり、神照元寂にして清虚朗明なり。
 虚に登る者は妙に、気を守る者は生く。
 至念なれば道臻いたり、寂かなれば真誠に感ず。
 神を役すれば形辱かしめられ、精を安んずれば年栄ゆ。
 徹に霊飛及此の六丁左右招神天光策精を授けん。
 以て虚そらを歩むべく、以て形を隠すべく、長生久視ちょうせいくしし、白はくを還し青せいを留めん。
 我が伝は四万の紀有り。
 徹に授くるの出は四十の齢在り。
 違犯して泄漏せば禍必ず族傾ぞくけいせん。
 是の天真に反そむかば必ず幽冥に沈まん。
 爾なんじ其れ禍を慎めよ。
 敢て劉生に告ぐ、爾が師主は是れ青真小童君なり、太上中黄道君の師真にして、元始十天王入室の弟子なり。
 姓は延、名は陵陽、字は庇華、形嬰孩の貌有り。
 故に仙宮に青真小童を以て号と為す。
 其の器たるや、玉朗洞照、聖周万変、元鏡幽覧、才真俊たり。扶広に館して始運を権はかり、玄圃げんぽに遊びては仙を治むるの職分たり。
 子は師の居に在り。
 爾の願ふ所に従ひ、授くる所を存せざれば、命必ず傾き淪しずまんと。
 言畢りて、夫人一一手にして施用する所の節度を指して以て帝に示す。
 凡て十二事都すべて畢おわる。
 又た帝に告げて曰く、夫れ五帝は方面の天精にして六甲六位の通霊なり。
 佩びて之を尊べば長生を致すべし。
 此の書は上帝元景の台に封ぜり、子其れ焉これを宝秘せよと。

?§4-3
豈如ケ學春秋、儒者之功難習、
どうして後漢のケ皇后が曹大家について、儒学の春秋を読まれたとしても、儒者の業は習熟し難いものである。
81.  ケ學春秋、儒者之功難習 「ケ學春秋」とは『後漢書』「ケ皇后伝」に、「宮掖に入りしより、曹大家【こ】(班昭)に従ひて経書と天文算数を受く。昼は王政を省み、夜は則ち誦読す。而して其の謬誤を患へ、典章に乖かんことを懼れ、廼ち博く諸儒劉珍等及び博士議郎四府掾史五十余人を選び、東観に詣り伝記を双校せしむ。事畢り奏御す。葛布を賜ふ各と差あり。又中宮の近臣に詔して東観に於て経伝を受読せしめ、以て宮人に教授せしむ」とある。「儒者之功難習儒」とは『史記』「太史公自序」に司馬談が六家の要旨を論じた一節があり、その中に、「夫れ儒者は六芸を以て法と為す。六芸の経伝は千万を以て数ふ。累世其の学に通ずる能はず、当年其の礼を究むる能はず。故に日く、博にして要寡く、労して功少しと」とあるのをさす。


竇專?老、金丹之術不成。
漢の竇皇后が熱心に黄老の言を学ばれても、金丹の術に成功しなかったようなことになろうか。
82. 貸専黄老、金丹之術不成 「専」は専心これを学ぶこと。一に「伝」 に作る。「伝わりて」とよめば、それでも通ずる。「黄老」は黄帝と老子。つまり道家の言をさす。・「金丹之術」は道士などが調する不老不死の薬を作る法。『陰符経』に、「金丹の術は百もて数ふ。其の要は神水・華池に在り」とある。『抱朴子』に「金丹篇」がある。『漢書』「外戚伝」に、「筆太后(文帝の皇后)黄帝老子の言を好む。景帝及び諸琴老子を読まざるを得ず、其の術を尊ぶ」とある。
・「金丹之術」は紫金經のことであり 煉丹の書のことである。後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。・紫金:赤銅(しゃくどう)の異称。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた。

固勝西蜀豪家、託情窮於魯殿、
むろん西蜀の豪家(劉?)の侍婢が情をこめて纔かに王延寿の「魯霊光殿の賦」を読むのである。
83. 西濁豪家、託情窮於魯殿 「西蜀豪家」は三国時代の蜀の劉?をさす。「魯殿」は後漢の王延寿の「魯霊光殿の賦」(『文選』に見ゆ)をさす。『三国志』の「蜀書」に、劉?が車騎将軍となり、軍服飲食移靡を極め、侍牌数十人、皆声楽を善くし、悉く教えて「魯霊光殿の賦」を誦読せしめたとある。「託情」は情を寄せること。「窮」はそれだけに止まる意。


東儲甲觀、流詠止於洞簫。
漢の元帝の東宮であった時、甲観の宮人がただ王褒の「洞爺の頌」を吟誦し得たのにも勝る。
84. 東儲甲観、流詠止干洞篇 「東儲」は皇太子で、漢の元帝の皇太子であった時をさす。一に「東台」に作る。「甲観」は甲第と同じ。かみやしき。『漢書』「成帝紀」に、「元帝太子たりし時、成帝を甲観に生む」とある。甲は甲乙丙丁を以て順序をつけられていたのでいう。「洞簫の賦」(もと「洞簫の頒」といった)は漢の王裏の作(亦『文選』に見ゆ)。『漢書』「王褒伝」に、「元帝太子たりしとき、褒が為る所の洞爺の項を嘉し、後宮の貴人をして皆之を詞託せしむ」とある。


?彼諸?、聊同棄日、
麗しい貌の諸姫にして空虚な日々を過ごす、聊か消遣の具となるものである。
85.  ?彼諸?、聊同棄日 『詩経』「?風泉水篇」に、「?たる彼の諸姫、之と謀るを聊(ねが)ふ」とあり、『毛伝』に、「?は好き貌。聊は願ふなり」といい、『鄭箋』には、「聊は且略の辞」とあるから、「いささか」とよませるつもり。「棄日」は日を空しく過ごすこと。『南史』「徐勉伝」に、「嘗て書を為り其の子ッを戒めて日く、汝当に自ら【つと】めて、賢を見ては斉しからんことを思ひ、宜しく忽略にして以て日を棄つ可からざるなりと」とある。「聊同棄日」とは、聊か消遣(時間つぶしに興をやる)の具となるであろうの意。


猗歟?管、無或譏焉。
?管を握る女史官といえども、これに対して譏刺を加えることはあるまい。
86.  猗歟?管、無或譏焉 「猗歟」は猗与と同じ。ああ。感嘆の声。『詩経』「周頌潜篇」に、「猗与漆阻、潜に多魚有り」とあり、班固の「東都の賦」には、「猗歟【ああ】緝煕、允に多福を懐ふ」とある。「?管」は朱塗りの軸の筆。女史用筆。『詩経』「?風静女篇」に、「静女其れ?【かおよし】我に?管を貽る」とある。「無或譏焉」は一に「麗矣香奩」に作るが、「聊同棄日」と対句になる処で、「無或譏焉」がよい。「或」は「有」と同じに見てもよいとされている。