中国歴史上の108人

   

殷から漢まで 前16世紀頃から220年頃











2 周公 理想的官僚

      (活躍期  前1043)


西から勢力を拡大した周族の武士は股の大軍を撃破し、股の都を攻略して最後の股王を殺害した。それは前一〇四五年頃とされているが、これには諸説あって、いまだに意見が一致していない。ともあれこうして成立した周王朝は、股の領域の西に起源をもつ一族(もとは遊牧民族だったと考えられている)だったので、中国の歴史家からはしばしば「蛮族」(異民族)と称されている。周は股から多くの高度な文化、とくに発達した文字や青銅器の鋳造などを学んだが、周がもたらした重要な改革や発明も多かった。周が崇拝した「天」は普遍的な至高の神となり、新たに支配者となった周王は、「中国」を支配する「大命」を受けた 「天子」と称した。
周王朝を築いた最初の王である武王は、段の支配地域の征服に向かって最初の一歩をふみだしたところで、わずか数年後に亡くなってしまった。武王の息子はまだ統治するには幼すぎたので、叔父にあたる周公が摂政として国政を担うことになった。周公の立場は事実上の王であり、実際に王位についたという説もある。
股の残存勢力と周公の兄弟が手を結んで反乱を起こすと、周公はこれを鎮圧し、さらに周辺の国々を軍事的に征服した。周公は諸侯を各地に派遣してその土地を治めさせるとともに、現地の習慣にも適応しながら、中国でもっとも長く続いた王朝〔西周・東周を合わせておよそ八〇〇年〕の安定のために力をつくした。現在の洛陽にあたる東都の造営を指揮し、周の封建制の確立に中心的役割を果たしたのも周公である。天命は支配者のふるまいにもとづいてあたえられる(支配者が不道徳や無能な場合は天命が失われる)という考えを強調することによって、周公は段王のように人
知を超えた神の力に頼るのではなく、統治に論理性の要素をとりいれた。
周公の名声がこれほど長いあいだ伝えられてきたのは、その業績の歴史的意義の大きさゆえである。とくに武王の息子で、周公にとっては甥にあたる正当な王位継承者に政権を返したことが高く評価されている。それによって長子相続による王位の直系継承の原則が確立したからだ。孔子(伝記4)はつねに周公をたたえ、周公の名は「よき官僚」の最たる例として語り継がれている。


         殷末期の鼎
通常はなべ型の胴体に中空の足が3つつき、青銅器の場合には横木を通したり鉤で引っ掛けたりして運ぶための耳が1対つくが、殷代中期から西周代前期にかけて方鼎といって箱型の胴体に4本足がつくものが出現した。蓋のついたものもあった。殷代、周代の青銅器の鼎には通常は饕餮紋などの細かい装飾の紋が刻まれており、しばしば銘文が刻まれる。

鼎はもともとは肉、魚、穀物を煮炊きする土器として出現したが、同時に宗廟において祖先神を祀る際にいけにえの肉を煮るために用いられたことから礼器の地位に高められ、精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられた。

現代において、鼎が調理に用いられることはないが、?語では、中華鍋など、鍋全般を今でも「鼎」と呼んでいる。

また、鼎とそれを用いる古式の祭礼は廃れたが、入れ替わるように後漢代に伝来した仏教において仏具の一つである香炉の様式に採り入れられ(鼎形香炉[1])、祭器としての名残を現代まで伝えている。日本でもわずかに用いられており、それらは卓上サイズに小型化し、耳と足もごく縮小した装飾になっているが、中国では陶磁製の物も含めてより色濃く古代の鼎の形態をとどめており、道教の神々や祖先の霊を祀る廟では青銅製の大きなものが線香や紙銭を捧げられている姿を見ることができる。



4 孔子 思想家

思想家
孔子は前五五一年か五五二年に生まれた。周に敗れた股王の遺児が領地をあたえられて建てた末という国があって、孔子の家はその君主の流れをくんでいる。孔子の祖先は周公(伝記2)の息子が建てた魯国に移住した。
孔子は母のひとり息子であり、父にとっては次男として生まれた。父は勇猛な軍人として知られていたが、それ以外の点では平凡な人物だった。孔子が幼いうちに父が亡くなると、母は孔子をつれて生まれ故郷に帰った。
孔子は君子に欠かせない実用的な能力だけでなく、高い教養や形而上学的な思考も学んだ。教師としての孔子の評判は高く、孔子は初期の周王朝の(理想化された)政治的秩序、すなわち慈悲深い天子がすべての諸侯を支配する政治の復活を基本的な政治的信念として掲げた。
五〇歳になる頃、孔子はようやく母国の魯で、ある都市の長官に任命される。孔子にとって初の重要な官職である。続いて土木担当の副大臣になり、さらに司法大臣になって、最後には宰相代理にまで上りつめた。孔子は祖国の魯と、はるかに強力な斉との二国間の首脳会談で重要な外交上の勝利をおきめたといわれている。
孔子は自分の政治思想を実現させる手段として、魯の君主の権威を高め、世襲の大臣やその有力な支持者の力を削ごうと画策した。しかし、この思惑は、真の権力をにぎっている彼らとのあいだに乱轢を生んだ。前四九七年に孔子は魯を去らなければならなくなった。
魯を離れて十数年間、孔子はいくつもの国に逗留したが、時代錯誤的な孔子の政治理論を学ぼうとする国はどこにもなかった。弟子のひとりが魯で高官の地位につくと、孔子は前四八四年にふたたび祖国に招き入れられた。
このとき孔子は六七歳。すでに老境に入った孔子は、元役人という立場を生かしながら、人生のなかでたったひとつ人より抜きんでた仕事に生涯最後の数年を捧げた。教育である。言い伝えによれば、孔子はこの時期に、のちに儒教の経書となる古典的書物を編纂したという。わが子とふたりの最愛の弟子を亡くし、自分の政治思想をどの国にも採用させることができないまま、孔子は前四七九年に世を去った。
孔子の人生は成功とはいえないかもしれない。しかし、孔子のものとされる教えの数々は、弟子の回想という形で『論語』にまとめられ、二〇〇〇年以上も中国の政治と社会を律する力となり、東アジアの社会に深い影響をあたえた。孔子は死後の世界や鬼神といった理性で説明できないものごとをほとんど語らず、どうすれば社会をよりよくできるかを考え、徳にもとづく政治を説いた。孔子は過去のある時代を理想として追い求めた。それは世の中がひとりの「すぐれた君主」のもとで統率され、君主が臣民に思いやりをもって接すれば、天がそれに報いてくれると考えられていた時代だ。君主が道をはずれたふるまいをすれば、天命は失われる。孔子は厳格な社会の階層性を重視し、「君主は君主らしく、家臣は家臣らしく、父は父らしく、子は子らしく」 (佐久協『一気に通読できる完訳「論語」』、祥伝社新書)、それぞれの本分をつくさなければならないと述べた。すべての人が自分の場所をわきまえていれば (当然、女性は社会的階層のいちばん下である)争いは起こらず、社会は安定するからだ。
孔子の書物として五経が残されている。五経は孔子自身の手になるものと伝えられてきたが、これは誤りだ。
五経とは『詩経』(周代の初期までさかのぼる三〇五編もの詩を集めたもの)、『書経』(周代初期をはじめとする古代の歴史書)、『易経』、『春秋』(魯国の前七二二−前四八一年の事件を年代記的に記述したもの)、『礼経』(儀礼にかんする昔の記録を蒐集したもの)で、これらの内容を補足するものとして、弟子がまとめた孔子の言行録である『論語』がある。昔の中国ではこれらの経典や思想を基本に、官吏採用試験である科挙への合格をめざして生徒を教育した。こうして孔子の教えである「儒教」は帝国全体の統治の土台を支えるものとなり、一九〇五年に科挙が廃止されるまでそれは変わらなかった。

儒教は驚くほど長い時代を超えて受け継がれ、いまも根強く残る大きな影響をもたらした。おそらく支配する側もされる側も、孔子の教えを必要とし、好ましく思っていたからだろう。支配者にとって、儒教は社会秩序、とりわけ君、仁へのゆるぎない忠誠を説く聖人の教えにほかならない。現代中国の指導者が、孔子の理想である「調和のとれた社会」 の教えをふたたび奨励しはじめたのは不思議でもなんでもない。支配される側にとって、儒教は忍耐強いひとりの教師が説いた思いやりや人間愛、合理的思考である。だれにでも喜んで教えを広めようとした孔子の教育への献身が、東アジアに文明が花開いた理由のひとつであることは疑いようもない。中国ではいまでも九月一〇日の「教師の日」に孔子に敬意を表している。孔子の末裔は現在も台湾に健在だ。_


有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。






5 墨子 思想家

思想家
墨子(子は先生という意味)は前四八〇頃−三九〇年頃に活躍した思想家で、平等や反戦を唱えたことで知られている。墨子の生涯についてわかっていることは少ないが、その哲学は『墨子』という本にまとめられている。
この本は孔子の書と同様に、長い年月をかけて生徒や弟子たちがまとめたものだ。墨子の思想は前四世紀と三世紀にはとても人気があったが、その後はほとんど影響力をもたなかった。
孔子と同じく、墨子もおそらく魯國(現在の山東省)の人だが、孔子と違って墨子は身分の低い職人だった。しかし墨子は教育を受け、規律の整った弟子たちの集団を作り、彼らとともに各地に教え説いてまわった。
墨子は、共通善のためにつくすことで平等な社会を実現させる必要があること、武力によらずに世の中を安定させるべきだという反戦思想、そして博愛を教えの中心に置いた。そこからさらに政府の出費の削減、有能な人材の活用、質素な埋葬などの教えが導かれた。墨子は功利主義者だったともいわれる。孔子が君子のたしなみとして重視した音楽を墨子は拒絶した。音楽は庶民の物質的豊かさにはなんの役にも立たないからだ。庶民を苦しめる三つの大きな不幸を、墨子はこのように語った。「飢えた者は食べ物をもたず、裸の者は着る服をもたず、使役人は休む時間がない」
墨子の弟子の多くは、大工、鍛冶屋、修理工、石工など、職人として働く人々だったと考えられている。人間はたゆまぬ努力を通じて物を作り、事をなすことができるという墨子の信念は、弟子たちのこうした仕事によっていっそう力を得たのだろう。墨子の平和主義は、不当な侵略を防ぐために積極的な守りを固めるという毅然とした面によってバランスがとれている。
墨子が亡くなってしばらくたってから流布した逸話がある。それによると、前四四二年、建築・工芸の名手として知られた魯班(中国の民間信仰では工匠の始祖として崇められている)が、楚に依頼されて宋を攻撃するための"攻城ばしご"などの武器を作った。墨子はこの戦いをやめさせるために、楚までの遠い道のりを、一〇日間昼も夜も休みなく歩きつづけたという。
墨子はまず魯班に会い、金塊とひきかえにひとりの男を殺してほしいと申し出た。魯班はそんな不道徳なことはできないと断わった。すると墨子は魯班を偽善者と非難し、何千人という罪もない民を殺害する侵略戦争に手を貸しているではないかと言った。返答に窮した魯班は、決めるのは楚の王だと答えた。すでに侵攻がはじまっていたにもかかわらず、墨子は王との面会を求め、魯班と模擬戦をしようと提案する。
模擬戦で墨子は自分の帯を都を囲む市壁に見立てて卓上に置き、小さな木片を武器のかわりにした。墨子は魯班が用いた九つの異なる城攻め道具をうまくしのいでみせた。すると魯班は、まだ打つ手はあると言った。それは目の前にいる平和主義者を殺すことだ。
ここで墨子は自分の三〇〇人の弟子たちがすでに宋の救援に向かったと明かした。これを聞いた楚の王は、ついに侵略をあきらめたという。この逸話は、墨子が戦争を防ぐためにどれほど心血をそそいだかを表している。






7 孫擯 兵法理論家

兵法理論家
司馬遷によれば、孫?は現代の山東省にあった斉の国で前四世紀初めに生まれた。正確な生没年や本名は知られていないが、兵法書『孫子』の著者として知られる孫子 (孫子は孫武の尊称)の子孫だといわれている。長らく孫願は 『孫子』 の共著者だと考えられてきたが、一九七二年に考古学者が孫?によって書かれたもうひとつの兵法書を発掘した。中国文化では、将軍や狭狩な戦術家、山賊といった伝説的な武人の物語とならんで、『孫子』は特別な敬意をはらわれている。
祖先といわれる孫子と同様に、孫?も戦術や戦法を学んだ。学友に?涓という男がいた。戦争がたえまなく続く戦国時代には、軍事的才能のある人材はひっぱりだこだった。?涓は当時最大の勢力を誇っていた魏に職を得て、魏軍の総大将に出世した。
?涓は孫?の才能をねたんでいたが、それを隠してかつての学友孫?を魏に招いた。ところが魏に到着するやいなや孫?は陰謀の疑いをかけられ、罪を着せられて両足の膝蓋骨を切除され、顔に入れ墨をされる刑を受けた。
?とは膝蓋骨を切除する刑を意味する言葉で、それ以来、孫?が彼の通称になった。
孫?はやっとの思いで魏を脱出し、斉の将軍田忌に雇われた。孫?は田忌と王が競馬で三頭の馬を競わせるとき、田忌に単純だが鮮やかな策を伝授して大金を勝ちとらせた。王の三頭の馬がすべて駿馬なのを見て、孫?は田忌の三番目によい馬を王のいちばんすぐれた馬と、田忌の二番目の馬を王の三番目の馬と、田忌のいちばん優秀な馬を王の二番目の馬と競わせるように勧めた。そうすれば二勝一敗で田忌の勝ち越しになるからだ。
孫?の初勝利は、前三五四年に?涓率いる魏軍が趙の国の首都を包囲したときに訪れた。趙から救援を求められ、前三五三年に斉の王が援軍を送ると、孫鷹は兵を趨ではなく、直接魏に向かわせた。これが「囲魏趙救」(「魏を囲んで趙を救う」という意味で、敵を集中させず、分散させて疲れさせてから撃破する戦術)という故事の由来である。
さらに、孫?は趙の首都の包囲を続ける魏軍をあざむくため、無能をよそおってわざと小さな負けをいくつか重ねた。そこへ斉の精鋭部隊が疾風のように魏に進軍してくるという知らせがもたらされた。?涓はあわてて軍を率いて魂に戻り、孫?の奇襲攻撃を受けて大敗を喫した。
数年後、かつての学友?涓とふたたび激突することになった孫?は、斉軍は弱いと見せかけて意表をつく作戦をとった。孫?は遠征中の斉軍の向きを変えて撤退するふりをし、兵上に命じて野営地で煮炊きする火を数名ごとに共有させ、敵から見える火の数を毎晩少しずつ減らしていった。?涓は野営地のたき火を数えて敵の戦力を推定し、たき火の数が三日間で一〇万から三万に減ったのを見て、斉の兵士はあいついで脱走しているにちがいないと判断した。
こうして前三四三−前三四二年のある冬の夜、孫?はあらかじめ罠をしかけ、馬陵という土地の山間部の狭い道に軽装備の魏軍を誘いこんだ。重い荷車がならべられて魏の進軍をさまたげ、地面に刺さった鉄の杭が馬の歩みを止めた。そこへ何万本もの矢が雨のように降りそそいだ。撤退すらできない状況で、?涓は「とうとうやつに名を上げさせてしまった!」と叫んで自害した。

「?涓この樹の下にて死せん」 − 孫?兵法 −
 中国戦国時代中期、孫子の兵法で有名な孫武五世の孫に孫濱(そんぴん)という者がおりました。斉(今の山東省の大部分)の国の住人で、若い頃鬼谷子のもとで兵法を学びます。その仲間に魏の国の?涓(ほうけん)という者がいました。
 二人は共に学び親友となります。大地主でいわば趣味で兵法を学んでいる孫濱と違い、貧しい?涓は兵法で身を立てなければなりませんでした。しかし、学べば学ぶほど孫濱に及ばないことを痛感させられます。

 学を修めて孫濱は故郷斉に帰りました。一方?涓は魏の国に仕え、またたく間に将軍に登りつめます。孫濱は親友の出世を伝え聞き、祝うために魏に赴きました。大歓待を受ける孫濱でしたが、?涓が身の回りの世話をさせるために付けた若い女奴隷に恋をしてしまいます。
 孫濱は彼女を斉に連れて帰ろうとしますが、女が故郷魏から離れたくないと言ったため魏に残る事にしました。
 親友の打ち明け話を聞いた?涓は複雑な表情をします。しかしそのあと、「なんとか君が仕官できるようにしよう」と答え話はまとまったかに見えました。

 そんなある日の事です。狩りに誘われた孫濱は、「公務が終りしだい合流する」という?涓に先立って約束した山に先に入ります。ところがその山は、魏公室の陵墓に連なるご禁制の山でした。そうとは知らない孫濱は、たちまち役人に捕まってしまいました。まもなく?涓がきて誤解を解いてもらえると安心していた孫濱でしたが、何日たっても?涓はやってきませんでした。

 はめられた、と気付いた時には遅すぎました。自分より才能のある孫濱が魏に仕えれば、いずれ取って代わられると恐れた?涓の罠だったのです。ただ親友を殺すまではないと両足を切断して、額に罪人の印の入墨をするに止めました。
 以後、孫濱は自嘲の意味をこめて孫?(?は膝頭の骨の意味)と改名します。この日以来、彼は復讐の鬼と化すのです。

 あるとき、魏の国に斉から田忌という将軍が使者としてやってきます。奴隷部屋に入れられていた孫?は、あのときの女奴隷の手引きで斉の使者に面会しました。会ってみてその賢才ぶりに惚れこんだ田忌は、秘かに自分の馬車に孫?を隠して斉に連れ帰ります。以後、孫?は田忌の客分として仕えました。そして孫?に好意を持った田忌は威王に推薦までしてくれました。

 その後、魏が趙を攻め、窮地に陥った趙は斉に救いを求めました。威王は孫?を将軍に任命しようとしましたが、「自分は刑罰をうけた不具者で適当ではありません」と辞退したため、田忌を大将に、孫?を軍師にして事にあたらせました。

 すぐに趙の首都邯鄲に急行しようとした田忌に対して
「もつれた糸を解くには、むやみに引っ張るものではありません。今、魏の首都大梁は、精兵が出払って手薄です。こちらを攻めれば魏軍はあわてて囲みを解いて急行してくるに違いありません。そこを待ち構えて叩くのです」と孫?は答えます。(囲魏救趙の計)
そして?涓率いる魏軍を待ち構えていた斉軍は『桂陵の戦い』で散々に撃ち破りました。

 それから13年後、再び斉と魏はぶつかりました。因縁の両者の最後の対決です。またしても孫?は田忌に策を授けました。
「魏は斉軍を柔弱と侮っております。我が軍は退却しながら竈をまず10万、次の日に7万と少しずつ減らしなさいませ。?涓は斉兵が逃亡していると読んで、少数の騎兵だけで追ってくるはずです。そこを待ち伏せしましょう。」
 はたして、斉軍の竈の数が日を追うごとに減少している事に気付いた?涓は、
「斉兵が臆病なことは前から知っていたが、ここまでとは…。これではいくら孫?が策を弄しても無駄であろう」と冷笑して、昼夜兼行でこれを追いました。

 敵の行程をはかってみると馬陵の地に日暮れ頃に到着すると読んだ孫?は、大木を切り倒し、幹を白く削ります。そして『?涓この樹の下にて死せん』と大書すると道端に大きく掲げさせました。
 四方に伏兵を配し、弩兵一万を潜めさせます。そして「あの目印に松明が灯ったら、そこをめがけて射よ」と命じました。

 ?涓は、日暮れすぎに馬陵に差し掛かります。なにやら大木に文字が書いてあるのを不審に思い松明を掲げさせ文字を読みました。その瞬間、1万本の弩が一斉に発射されます。大混乱に陥った魏軍は同士討ちを始めました。ようやく自分が孫?の罠に掛かったと悟った?涓は
「儒子(こぞう)に名を成さしてしまったか…」と自嘲の笑いを残しながら、自ら首を刎ねて自害しました。孫?はこの馬陵の戦いで天下に名をあらわし、今の世まで兵法書が伝わっています(司馬遷当時、漢代のこと)。




9 趙の武霊王 中国にズボンをとりいれた人物

(前二九五年死去)
名高い武人であり中国にズボンをとりいれた人物


前三二五年に趙の国で武霊王が即位したとき、この国は周辺を強力な敵国と荒々しい「蛮族」に囲まれ、少しも油断できない状況にあった。
同時に、東アジアでは戦闘方法に革命的な変化が起きていた。馬が引く戦車は前二〇〇〇年−前一〇〇〇年頃に西アジアや中央アジアから伝わって以来、長いあいだ主力として活躍してきたが、北方の遊牧民族のなかで力を発揮しはじめた騎馬兵にはたちうちできなくなっていた。身軽な遊牧民族の射手は、重々しく武装した貴族が走らせる戦車や、動きの遅い農民の歩兵に比べて、機動性も戦闘能力もすぐれているのは明らかだった。

武霊王は超にも騎馬兵をとりいれる決意をしたが、文化の違いが障害となって立ちはだかった。当時中国の男性が着用した伝統的なゆったりした衣服は、袖が大きく、スカートのように裾が長くて乗馬にはまったく不向き騎乗する射手の素焼きの人形だった。しかし、この服装は中国文化の象徴としてなかば神聖視されていた。たとえば斉の宰相の管仲が「蛮族」を撃退したのをたたえて、孔子は、「管仲がいなければ、われわれは征服されて野蛮人の格好をさせられていただろう」と述べており、伝統的な服装がいかに大事にされていたかがわかる。だから武霊王が「蛮族」の着るズボンをとりいれようとしたとき、上流階級は猛反発した。しかし前三〇七年、武霊王はなにがなんでも超の軍隊を強化しなければならないと貴族を説得し、ぴったりした短い上着にズボンと長靴という「蛮族」 の服装を受け入れさせた。

武霊王の生涯のなかでもうひとつ特筆に値するのは、前二九九年の夏に若い息子に位をゆずって退位したことだ。退位後の武霊王は主父と称し、軍事に力をそそいだ。この退位にはまざれもなく「蛮族」 の匂いがする。ステップ地帯の遊牧民は、しばしば現実の、あるいは儀礼的な王殺しをへて、つねに若く精力にあふれた君主を頂く風習があった。武霊王の退位も、それに似ていなくもない。

しかし、武霊王は新しい王の行動が気に入らず、その兄で、太子にしなかった息子を重用しようとした。その結果、前二九五年に兄弟間の骨肉相食む争いをひき起こしてしまう。兄は情け容赦なく殺されたばかりでなく、若い王の支持者が武霊王の居城を包囲し、兵糧攻めにした。武霊王はスズメの巣をあさって雛や卵を食べるほど追いつめられ、三か月以上も城を囲まれて、じわじわと飢え死んだ。



10 呂不韋 宰相

秦の丞相(宰相)となった呂不韋は、前二八四年頃に中国北部の超の国の大商人の家に生まれた。彼は父親と次のようなやりとりをして、政治の道に進む決心をしたという。
子「畑を耕したらどれくらい儲かるの?」
父「元手の一〇倍だ」
子「宝玉やヒスイを商えば?」
父「一〇〇倍だ」
子「国の君主を補佐すれば?」
父「はかりしれない見返りがあるだろう」
呂不韋が豊かな商人から「はかりしれない」権力の持ち主へ転身するチャンスがめぐってきたのは、人質として超で暮らしていた若い秦の王子を文接したときだ。王子を敵国に送るのは対立する諸国の勢力バランスを保つためで、戦国時代にはめずらしくなかった。呂不韋の生涯について知られていることは、ずっとのちに儒家の歴史家によって書かれたものだ。秦にとって代わった漠の時代に秦を見くだす風潮が広まったので、事実がゆがめられた部分があるのは否めない。呂不孝は自分の愛妾を秦の王子にゆずり、彼女は超の都の耶邪で前二五九年に男児を生んだ。生まれた子は秦の王子として政と名づけられたが、じつはこの愛妾はすでに呂不韋の子を身ごもっていて、政は呂不韋の子だという説がある。この子どもこそ、のちに強大な権力をもつ秦の始皇帝に成長するのである。
趙で人質となっていた若い秦の王子を援助したことによって、その王子が前二五〇年に秦の王として即位すると、商人だった呂不韋は宰相に任命され、摂政として王の政治を助けた。丞相となった呂不孝は秦の国政を円滑に進めるだけでなく、帝国の拡大に全力をつくした。前二四七年に一二歳の政が秦の王位につくと、秦の国力はいっそう高まった。摂政の呂不韋の功に報いるため、彼は仲父(父に次ぐ人)という尊称を授けられた。仲父とよばれるのは、父のような人物としてうやまわれている証である。
人質の王子を支援するという先見の明のある投資の見返りとして、かつて商人だった呂不韋は莫大な財産を手に入れ、一〇万戸の領地をあたえられて一万人の召使を所有した。また、才能や技能にすぐれた三〇〇〇人の食客(客の待遇でかかえておく人)を置いた。彼らは呂不孝を技術や学術面で支え、『呂氏春秋』の完成に貢献した。
この書は過去のさまざまな思想家の説を広くとりいれ、政治理論や哲学を百科事典のように網羅した大著だ。
前二三六年、秦の王(のちに始皇帝と称する)は太后である母と任官をよそおった若い男(呂不韋が太后の暮らす後宮に引き入れたといわれる)の不義密通の噂を聞きつけた。王は太后を軟禁し、にせの任官と、太后が生んだふたりの異父弟を処刑した。呂不韋も連座させられたが、若い王は急いで呂不韋を処罰するようなことはせず、はじめはただ領地に蟄居させるにとどめた。十数年間にわたって絶大な権力をふるった呂不韋のもとには、なおも使者や高官が引きもきらずつめかけた。業を煮やした王は前二三五年に呂不韋に厳しい手紙を送り、彼とその一族に、秦が征服したばかりの辺境地(現在の四川省)への追放を命じた。この伝説的な投資の天才は、さらに過酷な処罰を受けるのを覚悟して、毒を飲んで自害した。



12 項羽 秦に対抗した反乱軍指導者
前232年―前203年)
秦に対抗した反乱軍指導者

秦の二代皇帝に対する反乱を指揮した項羽(本名は項籍)は、前二三二年に南方の楚という王国の軍人一家に生まれた。それからまもなく楚は秦に征服される。しかし南方独特の文化と豊かな資源をもつ楚は、征服者である秦への抵抗を続けていた。秦の二代皇帝が即位した年(前二〇九年)の秋、楚の平凡な農民だった陳勝が秦に対する最初の反乱を起こし、国号を張楚として建国した。
項羽は、長江河口地域に位置する現在の江蘇省で、無頼の生活を送っていた叔父の項梁に育てられた。この叔父は甥の項羽に兵法を教えた。南方を巡幸する始皇帝(伝記11)を観察した項羽は、「この人物ならば倒して首を挿げ替えられる」と言い放ったという。叔父と甥のふたり組は少しずつ支持者を集めた。彼らは秦への反乱をよびかけた陳勝に呼応した楚の有力者をまとめ、しだいに勢力を拡大した。
項梁は旧楚の王の子孫を新王として立て、秦に抵抗するゆるやかな連合軍を組織した。そのなかのひとりが劉邦である。彼もまた旧楚出身で、平民だが野心にあふれ、勇名をはせていた。項梁が秦の将軍の奇襲を受けて戦死すると、項羽が反乱軍の指揮を引き継いだ。
前二〇七−二〇六年の冬、項羽は反秦連合軍を率いて北上した。樟河(黄河の支流) を渡ったのち、項羽は船をすべて焼きはらった。もう退却はできないと兵士に覚悟させたのである。項羽は冷徹で非情な男だった。項羽が秦の大軍と対峠している間に、劉邦は小規模な軍勢を率いて秦に侵入し、都を制圧した。二代皇帝は内紛によってすでに殺され、そのいとこが秦の君主となっていたが、この冬、その最後の秦王(すでに秦に帝国としての実態がないため、皇帝とはよばれない)が降伏した。
劉邦に遅れて秦に入った項羽は、自分の指揮下にある大軍を劉邦軍にさしむけ、総攻撃をかける準備を整えた。あらかじめ警告を受けた劉邦は、項羽に和睦と弁明を申し入れた。前二〇六年の初め、秦の宮殿を焼きはらい、最後の秦王を殺害した項羽は、秦の領地の大半を支配し、劉邦には漢江上流の盆地と辺都な四川省をあたえた。劉邦はただちに勢力を東に向かって拡大し、関中(戦国時代の秦の領地)に進出した。項羽はいくつかの重要な戦いで勝利を治めたが、項羽と劉邦の争いはしだいに劉邦側に有利に傾きはじめた。


項羽の肖像
前二〇三年、項羽は劉邦と雌雄を決するために一騎打ちを申し入れて拒否された。項羽は和平を提案し、鴻溝運河を境に天下を二分することに決めた。劉邦はこの協定に同意し、捕らわれていた父と妻をぶじにとりもどすことができた。
しかし、ほとんどその直後に劉邦はこの平和協定を破り、戦いを再開した。前二〇二年、劉邦は項羽を核下という土地で包囲した。
ある夜、項羽は周囲を囲む劉邦軍からわき上がる楚の歌を聞いて、祖国の楚が完全に劉邦の手に落ちたと思いこんだ。項羽は悲嘆にくれ、愛妾の虞美人に悲哀に満ちた詩を聞かせた。

わが力 山を引き抜き 意気は天下を包みこむ
だが 時は不利 愛馬はすすまぬ
愛馬がすすまぬ どうしたものか
虞美人よ そなたを 何としたものか (海知義『史記』、平凡社)

虞美人に別れを告げ、項羽は夜明け前に八〇〇騎の騎兵をつれて敵の囲みを破った。項羽は准河を渡ったところで、敵兵に追いつかれ、生きのびることができたのはわずか一〇〇人の兵のみだった。項羽は勇ましく戦って長江の北岸にたどり着く。そこから川を渡れば項羽の郷里に逃げこめたかもしれない。しかし多くの兵を失って、おめおめと生き残る気はなく、項羽は長江の岸辺で自刃した。項羽を討った者に恩賞があたえられることになっていたので、劉邦軍の数十人の兵士は恩賞ほしさに項羽の遺体を奪いあい、引き裂いて、仲間同士で殺しあった。
楚のふたりの若者、項羽と劉邦が争ったこの戦いで、劉邦は勝者となって漢王朝を建てた。

虞美人歌
漢兵已略地,四方楚歌聲。
漢の軍勢がすでに楚の国土を侵略してきたようだ。四方周りは敵の漢軍であるがその中に裏切りなのか故郷の楚の歌声が聞こえる。
大王意氣盡,賤妾何聊生。
落胆した覇王項羽大王の意気は尽き果てたのだ。この後、このわたくしは何を頼りに生きていけばいいのでしょうか。

(虞美人歌)
漢兵 已に地を略し,四方 楚の歌聲。
大王 意氣盡き,賤妾 何ぞ生を聊んぜん。

この詩は『史記正義』に出てくる楚の項羽(項籍)の女官である虞美人の作といわれる。項羽が、垓下で敗れたときに慷慨悲歌したときの詩
項羽『垓下歌』
力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。
騅不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何!
力 山を拔き 氣 世を蓋う,時 不利にして 騅は逝まぬ。
騅は逝まず 奈何とす可し,虞よ虞 奈何せん!
であるが、それに対して虞美人が歌い舞った。
項羽と劉邦は戦いと和睦を繰り返しながら、垓下で雌雄を決する一戦を迎える。この時、項羽の少数の軍勢を大軍で取り囲んだ劉邦は、味方の兵士たちに項羽の祖国楚の歌を歌わせる。この歌を聞いた項羽は味方の兵が寝返ったのだと誤解して絶望する。その絶望の中で歌ったとされるのが、「垓下歌」である。
・西楚覇王・項羽の愛姫・虞姫の唱った歌。 
・この悲劇に基づき後世、同題の詩が作られる。 
・虞美人 項羽の女官。「美人」は位。
・実質上の妻。『史記・項羽本紀』虞姫は、どの戦闘にもついて行った。



虞美人歌  秦末・虞美人 詩<118>古代 女性詩 555 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1482


漢文委員会ブログ 項羽と虞美人、劉邦と二人の夫人
(1)中国史・女性論 《項羽と虞美人》
(2)中国史・女性論 《項羽と虞美人》2.項梁と項羽の挙兵
(3)中国史・女性論 《項羽と虞美人》3.劉邦の人となり
(4)中国史・女性論 《項羽と虞美人》4.鴻門の会
(5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》5.楚・漢の抗争
(6)中国史・女性論 《項羽と虞美人》§-2 垓下の戦い1. 垓下の詩-1 
(7)中国史・女性論 《項羽と虞美人》§-2 垓下の戦い 1. 垓下の詩-2 
(8)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》2. 虞美人について
(9)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》3. 項羽の最後
(10)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》4. 項羽の死にざま
(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》

(U-1)中国史・女性論 《U漢の高祖をめぐる二人の女性》1.)大風の歌と鴻鵠の歌
(U-2)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》2.)高祖と戚夫人
(U-3)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》3.)呂后のまきかえし
(U-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着
(U-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路
(U-6)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》1.)呂太后の専権
(U-7)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》2.)劉氏への迫害と呂氏の専横
(U-8)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》3.)無為の政治
U-9)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》1.)家柄・性格の相違
(U-10)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》2.)?殺と「法三章」
(U-11)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》3.)漢中放棄と懐王の弑殺
(U-12)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》4.)将に将たるの器
(U-13)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》5.)劉氏政権の強化と保持
(U-14)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》6.)死に望んで 漢文委員






14 張騫 中央アジア以西への探検家

中央アジア以西への探検家
前三世紀以降、遊牧民の旬奴が築いた帝国がステップ地帯と中央アジアを支配し、中国の西への拡大をはばんでいた。この状況を打開したのは意気さかんな漢の武帝と、武帝が派遣した探検家で外交官の張騫である。
張騫は前二世紀なかばに生まれた。当時の漢の中心地であった現在の陝西省の人で、皇帝の侍者として位の低い官職についた。漢は北西部で遊牧民の匈奴の攻撃を受けていたため、武帝は月氏と同盟しようと考えた。月氏はかつて中国の北西にいた遊牧民で、匈奴によってその地を追われた恨みがあるからだ。月氏は古代インド・ヨーロッパ語族に属するトカラ語を話す民族だと考えられ、匈奴の攻撃をのがれて数十年前に西方に移住していた。

 張騫は志願して月氏への使節団を率いることになった。
百人あまりの人員からなる外交使節団は、漢で奴隷となっていた匈奴の堂邑父を案内役として、前二二九年に漢の都の長安を出発した。張騫一行は途中で匈奴に捕らえられ、十数年間も抑留された。張騫は匈奴で妻をめとり、子をもうけた。張騫はようやく数名の部下と案内役とともに脱出してタリム川に沿ってトウルファン盆地を通過し、パミール高原を越えてフエルガナ盆地にある大宛国にたどり着く。厳しい地形と果てしない距離を越える途方もない旅だった。大宛国の王は、張騫一行がサマルカンドを経由して本来の目的地であるアフガニスタン北部の大月氏国に向かう旅に力を貸した。
 
かつて遊牧民だった月氏は、パクトリアを征服して豊かな定住生活を送っており、対匈奴同盟にくわわる意思はなかった。しかし、張騫はインドや中央アジアより西の「西域」とよばれる地域にかんする重要な情報を得ることができた。
また、張騫は現地の市場で、現在の四川省(中国南西部)で生産された品物が売られているのを見て目をみはった。
パクトリアで一年はどすごしてから、張騫はできるかぎり南のルートをとって帰国の途についた。帰途にふたたび匈奴に捕らえられるが、またもや脱出に成功し、匈奴でできた家族とともに漢の都に帰り着いた。

 張騫がもち帰った西域の情報をもとに、武帝は中国の国境を酉に拡大するための軍事・外交努力をいっそう進め、いわゆるシルクロードを利用した通商や文化交流、そして南方への進出が急速に進んだ。パクトリアで四川省の産物が売られているのを見たという張騫の報告にもとづいて、四川省をへてインドへいたる南方ルートを発見するための試みがなされたが、これは成功しなかった。
しかし、失敗に終わったとはいえ、この試みによって漢の領土は雲南省まで大きく広がることになった。

西域への旅に出る前に武帝に別れを告げる張番。洞窟に描かれた壁画。

前一一九年、張騫はさらに大規模な使節団を率いて二度日の中央アジア行きを命じられた。漢が旬奴から奪って支配下に置いた甘粛回廊(河西回廊ともいうシルクロードの東端にあたり、南北を山脈にはさまれた細長い平地)を適って張番の部下たちが各地に旅立っていき、はるばるイランのパルティア帝国まで行く者もいた。
張騫白身は前二五年に漢の都の長安に戻り、その一年後に死亡した。張騫の探検は、ブドウ、アルファルファ、ゴマ、キュウリ、クルミなどの日常的な食べ物を漢に伝えた。これらはすべて漢代に輸入がはじまり、いまでは中国全体に広まっている。



16 王莽 帝位を纂奪した皇帝

 (前45年−後23年)【おうもう・ワンマン】

帝位を纂奪した皇帝


漢帝国の第十一代元帝の皇后王氏の一族であった王莽は、次の成帝の外戚となって実権を握った。前1年、哀帝の死後、幼少の平帝を擁立して皇位簒奪をはかり、ついに平帝を毒殺し、8年、皇帝となり「新」王朝を建てた。
 王莽の新王朝は周代を理想とする復古的な姿勢をとり、井田制を復活させて豪族の大土地所有を制限しようとするなど、積極的な改革の面もあったが、新貨幣を二十八種類も鋳造(王莽の時発行された貨泉という銅銭は日本でも発掘されている)するなど実情に合わない法を乱発して政治・経済が混乱した。まず18年に農民反乱である赤眉の乱が起こり、さらに豪族の離反が続き、漢王室の流れをくむ劉秀などの豪族が挙兵し、抗しきれずに23年長安で自殺した。劉秀は25年、光武帝として即位して漢王朝を復興し、後漢とした。


王莽は前四五年に漢の貴族の家系に生まれる。伯母のひとりは漢の元帝の皇后(元太后)で、その子どもが成帝として即位した。伯母の引き立てで王莽は猛スピードで出世し、前八年に大司馬(軍事の璽同位の官職)に就任した。私財を投じて恵まれない者を助け、俊才のほまれ高い者をとり立てたので、王莽は漢でもっとも人気のある官吏となった。彼の謙虚さを物語る次のようなエピソードが伝えられている。王莽の母の病気見舞いに貴族の女性たちが続々と訪れたとき、質素な身なりをした王葬の妻は召使とまちがえられたという。
成帝は前ヒ年に跡継ぎを残さずに崩御した。哀帝が即位すると、その外戚のふたつの氏族は王一族を排斥した。
王葬は官職を離れ、自分の領地に戻って目立たない暮らしをしながら機会をうかがった。次男が奴隷を殺してしまったとき、王葬は彼を自殺させ、その公正な態度によって王葬の名声は上がる一方だった。
哀帝は前一年に、ふたたび跡継ぎを残さずに崩御した。哀帝の祖母と母もすでになく、元太后はただちに権力をとりもどし、王莽を中央によぴもどした。王莽と元太后はともにはからって、わずか八歳の幼い自蒜(平帝)を立て、王莽が事実上の支配者となった。野心を隠し、権力を確かなものにするために、王莽はなんのためらいもなく自分の長男を殺害した。王莽が貧民の救済や各地での学校建設のために大金を寄贈(ふつうなら官吏の給与や報奨金にまわされる)すると、その評判はますます高まった。
こうした行動によって、王莽は周公(伝記2)に匹敵する聖人として称賛された。その一方で王莽は若い平帝を毒殺し、紀元五年にまだ幼児の皇帝を使偏として立て、みずから「摂皇帝」と称した。そして数々の天のお告げを捏造したあげく、表立った反対はほとんどなく、皇帝に即位して国号を「新」とした。紀元九年のことである。
王莽は古代周王朝の政治制度を自分なりに解釈し、それにしたがって大幅な政治改革を断行した。行政機関の組織変更や改暦にくわえて、すべての土地と悠隷の国有化を宣言し、それらを私的に売買することを禁じた。また、商業や経済行為を政府の厳格な規則と支配卜に置き、貨幣制度をたびたび改革した。
王莽は自分の改革に反対する者はだれであろうと厳しい法的処罰を課したので、民衆のあいだに激しい怒りがわき起こった。かつて人望を集めた支配者が、国中で恨まれる君主に転落するのに一〇年もかからなかった。漢の支配を懐かしむ民衆の声がしだいに高まった。
紀元一七年に人規模な農民蜂起が起きた。ばらばらだった反乱者の集まりは、漠王朝の復活という目的で川結し、しだいに強力になった。二三年の秋、王葬の、▲L力軍を打ち破って、反乱軍は都の長安に侵攻した。
10月6日、王莽は宮殿で殺された。王莽は首をはねられ、頭部は「再興した」後漢王朝によって色を塗られたうえに戦利品として保存されていたが、晋王朝(酉晋)時代の二九五年に火事で失われた。帝位を簑奪した王葬は、中国史ではつねに極悪人扱いである。

王莽が鋳造した貨幣







18 王充 懐疑主義の思想家

(27−89/104)


懐疑と義の思想家

王允は長江河口域にある現在の斬江省紹興市の近くで、二七年に生まれた。当時はまだ「半蛮族」地域とみなされていた中国南部出身者のなかで、はじめての傑出した学者のひとりである。
王允はきわめて聡明な少年で、四四年頃に、一〇代後半で都の洛陽に出て国立大学で学ぶように推薦されたほどだった。師は有名な学者で歴史家の班彪である。
貧しい家の出身だったので、王允はたくさんの本を買うことはできなかったし、宮廷図書館を利用することもできなかった。そのため、都の本屋をひんぱんに訪れ、本を何冊も立ち読みして内容を覚えたといわれている。八六〜八八年にかけて楊州市の官吏をつとめたのを最後に、その後は仕官しないで残りの生涯のほとんどを教育と執筆のために捧げた。王允は八九年から一〇四年のあいだに亡くなった。数々の著作のなかで『論衡』だけがほぼ完全な形で残り、思想家としての王允の重要性を明らかにしている。
王允は批判的で懐疑的な立場をとり、孔子をふくむ古代の聖人の伝説に疑問を投げかけ、あらゆる中国の吾は「九つの嘘と三つの誇張」を黙認していると断言した。世間に広まり政府も肯定している予言や大衆的な迷信を、王允は論理を使って攻撃した。民衆は幽霊や鬼神を信じているが、そんなものはいない。衣類が人の死後まで残るはずはないから、もし幽霊がいるとしたら裸で現われるしかない。だれがそんな幽霊を想像するだろうか、と王充は言うのだ。


ヒスイと金でできた埋葬用の衣装。王允が攻撃した迷信と無知の典型的なものだ。

もうひとつの著作である『讃俗』 (風習やしきたりに対する風刺の意味)は現存しないが、王允はそのなかで、文語体ではなく日常的な口語で書類を書くという画期的な提言をしたと伝えられている。口語体が正式に採用されるようになったのは、それから二〇〇〇年近くたった二〇世紀のことである。
女性詩人の蔡?の父、察臣が中国南部に蟄居しているあいだに『論衡』に出会わなければ、王允の著作は忘れきられていただろう。儒教の忠実な支持者からは異端とみなされたが、中国前近代の非主流派の文筆家の多くが『論衡』に刺激を受けた。道教の思想家である荘子がきわめて自由閥達(かつ創意に富む)であるのと同じように、王允は合理的精神と迷信に対する批判にかけてはならぶものがなかった。

王 允(おう いん、137年 - 192年)は、中国後漢末期の政治家。字は子師。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市太谷県)の人。呂布と共謀して董卓を殺害したが、その部下に逆襲されて殺害された。兄は王宏[1]。子は王蓋・王景・王定(王宗[2])。孫は王黒。甥は王晨・王?。

若い頃、名儒として名を馳せていた郭泰から「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王を佐(たす)ける才。主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能)である」と英才の誉れと評されていた。

19歳にして郡の役人となった。当地では、趙津という者が悪行を繰り返し問題となっていたが、王允はこれを捕らえて処刑した。このため趙津の兄弟が怒り、中央の宦官に賄賂を送り王允への復讐を行おうとした。宦官が桓帝に事実を捻じ曲げて報告したため、桓帝は王允の上司であった太守を投獄し処刑した。王允は太守の棺を持って太守の故郷の平原(山東省徳州市)まで持ち帰り、自分の親が死んだ場合と同じだけの3年間を喪に服し、喪が明けると復職した。

新しい太守の王球が、大して能力も名声も無い者を登用したのでこれを諫めた。すると王球はこれを不快に思い、王允を投獄して殺そうとした。それを聞いた刺史のケ盛は、王允を救い出して自分の部下にしたという。このことで王允の名声は一躍高まった。

184年の黄巾の乱に際しては豫州刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に迎え黄巾軍を撃破した。乱終結後、王允は十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴したが、張譲が謝ったことで霊帝がこれを許してしまったため、張譲からの逆恨みで投獄されてしまった。死刑に処されるところであったが、多数の助命嘆願により命を救われた。


董卓政権

霊帝が死去すると、何進は妹(何太后)の子であった劉弁(少帝弁)を帝位に就けた。王允は何進に招かれて河南尹(首都洛陽を含む郡の長官)となり、劉弁が即位すると尚書令に任じられた。

その後、何進が宦官たちに殺されると、董卓がそれに代わって政権を握った。190年、董卓から司徒に選任され政務を執ることとなった。

しかしその後、董卓は暴政により少帝を殺害したり、洛陽を破壊して長安への遷都を強行したことで人望を失った。また董卓は、張温を袁術と内通している者であると誣告し鞭で打ち殺させ、縁談を断った未亡人を棒で殺害させた。さらに百官の前で投降した兵の舌をえぐり抜き、手足を切断させている最中に飲食するなど、様々な狂態が相次いだ。このような相次ぐ異常事態に憂慮した王允は、友人の黄?や部下の士孫瑞と話し合い、董卓暗殺計画を練って実施の準備を始めた。

結果的に暗殺を引き受けたのは、王允と同じ并州出身で董卓の寵臣となっていた呂布であった。呂布は董卓に信頼され、その養子となり身辺警護を勤めていたが、ある時に董卓の機嫌を損ねて手槍を投げつけられたことがあった。また董卓の侍女と密通しており、この事がばれないかと恐れていたという。そのような折に呂布の相談を聞いた王允は、自身の暗殺計画を打ち明け、呂布を説き伏せて仲間に引き入れた。192年4月、董卓が宮殿に参内した際、これを呂布に殺害させた。

三日天下
王允は殊勲者の呂布を奮威将軍に任じ、温侯に封じた。また、董卓の残党狩りを行なって董卓の一族を皆殺しにし、董卓派と見られる官僚らを粛清した。その中には文人として名高い蔡?もいた。

しかし呂布をはじめとする多くの者が、旧董卓軍の涼州兵たちを特赦するよう提案したが、王允は「年に二回特赦を出すことは慣行に背く」と拒否し、追放を決定した[3]。さらに呂布らが、董卓の財産を協力した兵たちに賞与として分け与えるよう提案したが、王允はこれも拒否した。また董卓に厚遇されていた蔡?が恩を感じ、董卓の死に嘆き悲しんでいた事に対して投獄し、獄中で歴史書の編纂を行おうとした事に対しても、死罪をもって対応した。このような固定概念に囚われた融通の利かない対応が、後に自らの首を絞めることになっていく。さらに王允がかねてから呂布を軽視し、呂布も自分の功績を誇ることが多かったため、両者の仲は次第に悪化していったという。

董卓の部下であった李?・郭ら涼州出身者は降伏を願い出たが、前述のように王允は許さなかった。このため同年6月、李?・郭らが賈?の助言により都に攻め入ると、王允に反発した胡軫・楊定の裏切りもあり、王允・呂布らは敗北した。

敗れた呂布が撤退時に

「さあ、共に参りましょう」
と王允に同行を誘ったが、王允は

「国家の安定が、私の願いでした。これが達成されないとあれば、命を捨てるまでのことです。朝廷では幼い陛下が私だけを頼りにしているのです。この期に及んで一人助かるなどとは、とても私にはできません。どうか関東の諸侯によろしくお願いします。天下のことを忘れないようにと、お伝えください」
と処刑される覚悟で、長安に残った。

呂布を破った李?らは長安へ侵入し、董卓暗殺に加担した有力者らを次々と殺害、献帝の避難所に迫った。献帝が李?らを詰問したが、李?らは「陛下に忠を尽くし、董卓暗殺の復讐をしたまでのことです。終わり次第、罪を受けます」と弁明した。行き場を失った王允は逮捕・処刑された。齢57。また、子らをはじめ一族も皆殺しとなり、全員が晒し首となった。

長安の人々は、老若男女問わず全員が涙を流したという。後に許都へ移った献帝は、その忠節を思い殯(もがり)を改めて葬ると、司徒の印綬を郷里の郡へ送った。孫の王黒が安楽亭侯に封じられた。彼の墓は現在許昌市郊外にある。

宋の范曄は「王允が董卓を推戴して権力を分担したのは董卓の隙を伺うためであり、知る者はその本意が忠誠にあったと知っていた」と評している。また同伝賛は「難に図って心を晦まし節を傾けた。功は全うすれどもは元は醜く、残党を残すことになった」と述べている。



19 張陵 道教の開祖


20 張角 道教の開祖


21 曹操 軍師・物語の英雄


22 蔡エン(蔡文姫) 悲運の女性詩人











歴史上の108名 殷to漢




1 婦好 殷の女将軍

1
婦好は股の武十の数ある妃のひとりだった。しかしほかの女性たちと違って、婦好は女だてらにたびたび軍を率いて戦った。婦好の活躍は中国のもっとも古い記録に残り、婦好の墓から出土した儀式用の武器も、婦好の軍人としての働きを証明している。

殴(前一六〇〇頃−一〇四五頃) は、王朝自身が残した記録によって存在が確認できる中国最初の国家である。
世紀あまり前まで、そうした記録は時代があやふやで数も少ない青銅器にきざまれた銘を調べるしかなかった。
状況が人きく変わったのは一八九九年のことだ。ふたりの中国人学者が昔から薬の材料に用いられていた「龍骨」に育妙な模様がきざまれているのに気づき、知られているなかでもっとも占い漢字で書かれた占いの記録であることを発見した。その後、こうした「甲骨」は十万点以上も見つかっている。その多くは考古学的発掘によるもので、たいてい亀の甲羅や牛骨が用いられている。

仁の宴である婦好の名は数自点の甲骨から読みとれる。一九七六年に、現在の河南省で段後期の王都から未盗掘の婦好の墓が発見された。婦好の名をきざんだ甲骨とともに墓から出土した考古学的な遺物によって、長いあいだ忘れられていたこの上妃の生涯が明らかになった。
武丁は前二二世紀後半の五九年間王位にあったと考えられている。婦好が数千人の兵を率いて数々の遠征や戟閥に参加したことは、数えきれないほどの甲骨に記されている。ひとつの遠征には、当時としてはもっとも多数の兵士が動員された。副葬品として納められた数々の武器のなかに二丁の青銅製の斧がある。両方とも婦好の名がきざまれ、ひとつは九キロ、もうひとつは八・五キロの重さがある。これらは儀式用の斧で、殉死者の首をはねるために使われたのかもしれない。婦好墓からはたくさんのヒスイが発見されたことも知られている。
甲骨に残された占いから、婦好が政治的な役割を担う女性だったのは明らかだ。また、婦好の懐妊についての占いなど、健康にかんする記録も多く、婦好は長わずらいののちに亡くなったことがわかっている。
婦好の存在は数千年間忘れさられていた。しかし、このたぐいまれな王妃の「好」という名前は、「よい」という意味を表す中国語としてはるか昔から受け継がれてきた。それこそは股代のこの高貴な女性の遺産である。

婦好は殷第23代王武丁の妻の一人。名は好、婦は一種の親族呼称であり、諡号は母辛、姓氏は不詳。中国史に登場する最初の女性政治家、軍事家である。
武丁の在位中は周辺国家・部族に対し戦闘が行われており、婦好も数多く兵を率いて出兵した。巴方、土方、夷方などの征伐におもむき、羌人征伐のときには13,000もの軍勢を指揮している。また、祭祀を担当し、祭天、祭祖先、祭神泉などの儀式を執り行った。武丁の寵愛を受け封地を冊封されている他、婦好に関する甲骨卜辞は170件以上にものぼる。
甲骨文字には武丁が婦好の懐妊に際し男児か女児かを占った内容のものが残されている。
武丁に先立ち死去した婦好は殷墟の宮殿宗廟区内にある婦好墓(河南省安陽市)に埋葬された。殷王族の墓の中では唯一盗掘をまぬがれ、1976年に発見された。墓内からは婦好が軍事権を握っていたことを示す鉞や、殷代には珍しい銅鏡、方鼎や長方彜など1,928件の文物が出土している。

殷墟の宮殿宗廟区内にある婦好墓



3 よそ者の妻 すてられた妻の物語



この女性はおよそ二五〇〇年以上前に魏(現代の河南省付近)で作られた民謡に歌われている。古代には、この地域は男女が自由に恋愛を謳歌する風習で知られていた。しかしこのもの悲しい歌を見れば、そうした恋物語のすべてがハッピーエンドでなかったのは明らかだ。すてられた妻の嘆きは、いつの時代も永遠のテーマなのである。
『詩経』は前一〇世紀から前七世紀にかけて作られた古い詩を集めたもので、儒教のもっとも重要な経典のひとつであり、中国の伝統的な教育制度では必読書とされた。昔から『詩経』は孔子自身が編纂したと考えられてきたが、この説には疑いもある。『詩経』のなかの「氓」【よそ者の意味】という詩を見てみよう。

詩経国風:衛風
 氓:よそ者の男につかえ、捨てられた女の嘆き
氓之蚩蚩,抱布貿絲。匪來貿絲,來即我謀。
送子?淇,至於頓丘。匪我愆期,子無良媒。
將子無怒,秋以為期。
乘彼?垣,以望復關。不見復關,泣涕漣漣。
既見復關,載笑載言。爾卜爾筮,體無咎言。
以爾車來,以我賄遷。
桑之未落,其葉沃若。於嗟鳩兮,無食桑?。
於嗟女兮,無與士耽。士之耽兮,猶可?也。
女之耽兮,不可?也。
桑之落矣,其?而隕。自我徂爾,三?食貧。
淇水湯湯,漸車帷裳。女也不爽,士貳其行。
士也罔極,二三其コ。
三?為婦,靡室勞矣。夙興夜寐,靡有朝矣。
言既遂矣,至於暴矣。兄弟不知,咥其笑矣。
靜言思之,躬自悼矣。
及爾偕老,老使我怨。淇則有岸,隰則有?。
總角之宴,言笑晏晏。信誓旦旦,不思其反。
反是不思,亦已焉哉。
(1)
氓の蚩蚩(しし)たる、布を抱いて絲を貿(か)ふ。
來って絲を貿ふに匪(あら)ず、來って我に即(つ)いて謀るなり。
子を送りて淇を渉り、頓丘に至る。
我期を愆(すぐ)すに匪ず、子に良媒無し。
將(こ)ふ子怒ること無かれ、秋を以て期と為さん。
流れ者のあなた、一見誠実そうですね、わたしの村に来て糸を売っているあなたは、実は糸を売るのが目的ではなく、わたしを口説くのが目的だったんですね、あなたに従って淇水を渡り、頓丘に登りましたね、あなたの気持ちにすぐ応えないわけではありませんが、あなたには手ごろな仲人がいません、怒らないでくださいね、秋まで待ってください
(2)
彼の危垣に乘(のぼ)りて、以て復關を望む。
復關を見ずして、泣涕漣漣たり。
既に復關を見れば、載ち笑ひ載ち言(ものい)ふ。
爾卜し 爾筮せよ、體に咎言無ければ。
爾の車を以て來れ、我が賄を以て遷らん。
あの危垣に一人で登って、あなたのいる復關の方を眺めました、はじめは復關のあなたが見えなくて、涙がでてきたものです、でもやがて復關からあなたがやってきて、二人は笑いあい語りあいましたね、どうぞわたしたちの運命を占ってください、もし災いの徴がなかったなら、車でわたしを迎えにきてください、わたしは嫁入り道具を持ってあなたについていきます
(3)
桑の未だ落ちざるとき、其の葉沃若たり。
于嗟(ああ)鳩や、桑甚を食ふこと無かれ。
于嗟(ああ)女や、士と耽ること無かれ。
士の耽るや、猶ほ説くべし。
女の耽るや、説くべからざるなり。
桑の葉がすべて落ち尽くさないうちは、その葉はつやつやと茂っています、ああ、鳩や、体を壊すから桑の実を食べ過ぎないように、女もまた、男とみだりに交わらないことです、男が好色なのはまだ許してもらえます、女が好色なのは、弁解することもできません
(4)
桑の落つるとき、其れ黄ばみて隕(お)つ。
我爾に徂(ゆ)きしより、三歳食貧し。
淇水湯湯たり、車の帷裳を漸(ひた)す。
女や爽(たが)はず、士は其の行を貳つにす。
士や極りなし、其のコを二三にす。
桑の葉が落ちるときは、その葉は黄ばんでいるものです、わたしがあなたに嫁いでから三年の間、わたしはろくなものも食べずにあなたに仕えました、淇水の水は湯湯と流れ、車の帷裳を濡らします、その流れのように女の心は変わらないものですが、男の心は裏表があります、男の心は計り知れず、その行いを二転三転します
(5)
三歳婦と為りて、室を勞とするなし。
夙(つと)に興き夜に寐ね、朝有るなし。
言既に遂げて、暴に至る。
兄弟知らず、咥(き)として其れ笑ふ。
靜かに言(ここ)に之を思ひて、躬自から悼む。
三年間あなたの妻となって、家事を厭うこともありませんでした、朝早くおき夜遅く寝て、一日も怠りませんでした、なのにあなたは昔言った言葉を忘れ、わたしを粗末に扱うのです、兄弟はそんなことを知らず、日々笑って暮らしています、一人静かにこんなことを思っていると、心が痛むばかりなのです
(6)
爾と偕に老いに及ばんとせしに、老いて我をして怨ましむ。
淇には則ち岸有り、隰(さわ)には則ち汀(みぎわ)有り。
總角の宴、言笑晏晏たり。
信誓旦旦たり、其の反するを思はず。
反すること是思はざらん、亦た已(や)んぬるかな、
あなたと二人で共に老いようと願っていたのに、年老いた今あなたはわたしを悲しませます、淇水には寄る辺としての岸があり、沢には水際があります、まだ娘だった頃には、あなたとともに談笑し、あなたの心を信頼して、裏切られることなど考えも及びませんでした、でももうこんなことをくよくよ思うのは止めましょう、どうすることもできないのですから

素性のわからぬ男の言葉を信じて、一人ついていったのに、三年もたたぬうちに裏切られ、粗末な扱いを受けている女の恨みを語った歌である

氓とはどこの誰ともわからぬ人、あるいは定住せずに転転としている根無し草のような人をいう、子に良媒無しといって女は始めは結婚を断るが、男の情にほだされて一人ついていく、当時の中国にあっては男女の結婚は正式の仲人を介してするものであったから、そうでない結婚は祝福されなかった。

氓:あるよそものが 二コ二コと、たんものかついで 糸買いに。線を買うとは うわべだけ、まことはわたしを 連れるため。− やさしいことばに ついだまされて 、きみのあと追い 浜をわたり、頓丘までも 見送った。−≒そこで男に 言うことはどうぞあなたは 怒らずに、しばし秋まであの人もしやと 忘れかね、高い塀まで主は来ぬ。さてだまされたと 涙ポロポロ。
− 「わたしが返事を のばすのは、まだ仲人が ないためよ、お待ちなさい」
よじのぼり、後閑どこかと みはるかす。なんば待っても それでもやっと 逢いに来た。きげんなおして 聞いて見た − 「きみが占い 何と出た、『書』 と出石なら しあわせよ、あなた卓で 迎えてたもれ、わたしゃお
たから 載せてゆく」
桑の葉っぱも 秋までは、その葉の色さえ つややかなる。用‥心しなよ 鳩の子よ、あの桑の実は食うでない、桑の実食えば、酔いしれる、気をつけなされ おとめごよ。男のようには あそべない 男のあそぶは ゆるされる。おとめのあそびは ゆるせないもの。
秋ともなれば 桑の葉も、色香もうせて 散りそめる。昔とついだ あのころは、食うや食わずの くらしむき。わたしゃそれでも 浜の川を、幌をぬらして 渡ったけ。女ごころは たがわぬも、男ごころほつれなくて、うつろい易い 秋の空。
三とせがあいだ つれそうて、ともに苦労を してきたが、朝は早うから 夜なかまで、つゆおこたらずつとめたに、くらし (生活) の立つよに なったいま、こんなてあらな しうちとは。わけをしらない はらからは、笑ってるだけ とりあわぬ。ただひとりして 身の上を たれにもいわず なげくだけ。
友白髪とこそ ねがったに、このとしにして 怨ませるとは。気ままな与がれを 止めるとて かの洪の
川には 岸がある。さわ (沢) の水にも つつみがある。見そめたぼかしの あのころは、たがいに楽しく
すごしたに。まごころこめて 誓ったに。そんな昔は わすれてか。あのころはもう 返らない。あきらめましょう もうこれまで。(境武男 『詩経全釈』、汲古書院)




6 商鞅 官僚・改革者

(前309年頃〜338年)
官僚・改革者

商鞅は戦国時代に入ってまもない前三九〇年頃、現在の河南省と山東省にまたがる小さな衛という国に生まれた。
戦国時代には周の「伝統的」封建制が修復不能なまでに崩壊し、鉄器の使用が広まり、商業が発達し、土地の私的所有がゆるやかに進んだ。古い政治秩序が求心力を失い、諸国は覇権を求めてますます争うようになった。
争っていた諸国のひとつが秦である。西に位置する秦は、しばしば半蛮族の国とみなされてきた。おそらく秦の王は「外国」の有能な人材を集めようとしたのだろう。商鞅は王の求めに応じて、前三六一年に秦におもむいた。商鞅と秦の王の孝公は、「富国強兵」をいかに進めるかを語りあった。商軟と秦の保守的な貴族は、秦の宮廷で改革の利点と必要性について意見を戦わせた。孝公は商軟の提言した法家(厳格な法による統治を重んじる学派)にもとづく改革を試みた。するといちじるしい成果が見られたので、商鞅は法と政治の徹底した改革を進めるため、秦の爵位を得て大臣として正式に登用された。
商鞅の改革の中心は次のようなものだ。民を数軒単位で一組として編成し、このなかで罪を犯す者があれば連帯責任を負わせ、告発を奨励した。軍功のあった者は平民であっても爵位をあたえ、貴族でも手柄がなければ爵位を剥奪する新しい貴族制を整えた。そして農業を拡大し、商業を軽視した。
法家思想にもとづく商軟の改革によって秦の国力は急速に高まった。前三五四年、秦は魂と戦って大きな勝利をあげた。その後、商鞅は宰相に出世し、行政権と軍事権の両方を手中にした。
商鞅は前三五〇年にさらなる改革を提唱した。土地の売買を可能にする政策の実施、郡県制を敷き、貴族に替えて俸給で雇われた長官を置く行政改革、度量衡の統一。これらの改革によって秦の経済と行政上の効率は大幅に向上したが、既得権を奪われた人々、とくに古い貴族階級から激しい反発を受けた。
秦の孝公は前三三八年に亡くなり、太子が即位した。太子のふたりの後見人は商鞅の改革に反対したために罰せられた過去があった(ひとりは鼻削ぎの刑を受け、もうひとりは顔面に入れ墨を入れられた)。君主が交代したことで、身の危険を感じた商鞅は国外に脱出しようとした。しかし正式な旅券をもたない者を宿泊させてはならないという法により、その計画は果たせなかった。商鞅は自分で定めた法に足をすくわれたわけである。商鞅は兵を率いて反乱を試みるが、捕らえられて処刑され、一族はすべて滅ぼされた。しかし商鞅の改革はその後も秦で受け継がれ、ついには中国の統一者、秦の始皇帝を生み出すのである。

第一次変法
紀元前356年、孝公は公孫鞅を左庶長[3]に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。
戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける[4]。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる[5]。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
遠縁の宗室や貴族といえども、戦功の無い者はその爵位を降下する。
法令を社会規範の要点とする。
まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈[6]もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。
しかし、最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法がきちんと守られていないと考えた。考公13年(前349年)、太子の?駟(えいし)(後の恵文王)の傅(後見役)である公子虔(中国語版)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔(中国語版)を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝懽を死刑に処した。このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は全ての人が法を守った。
そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。はじめ不満を漏らしていた民衆たちも手のひらを返したように賞賛の声を揚げたが、公孫鞅は「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

第二次変法
紀元前354年、河西の役(中国語版)
紀元前353年の桂陵の戦い(中国語版)で魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑、固陽の役(中国語版))。同年、この功績で公孫鞅は大良造(中国語版)に任命された。
紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した。
この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。
父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
井田を廃し田地の区画整理を行う。
度量衡の統一。
秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やす意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。
紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫?によって魏の?涓が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の役(中国語版))。またかつて親友であった魏の総大将である公子?(中国語版)を欺いてこれを捕虜にし、黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省安邑)から東の大梁(現在の開封)に遷都し、恵王は「あの時の公叔?の言葉に従わなかったためにこのような事になってしまった。」と大いに悔やんだという。
この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。






8 荘子 荘子−道家の思想家

道家の思想家



荘子は道家思想の始祖のひとりで、周に征服された殷の一族の子孫が封土をあたえられて建てた宋の国の出身である。荘子は前四世紀から前三世紀頃に生きた人で、漆園の名もない管理人だった。荘子の生涯にかんする逸話のほとんどは『荘子』という書物によって伝えられたものだ。これは荘子の著書とされているが、現存する『荘子』 には後世のさまざまな学派の思想家が書いた文章がふくまれているようだ。
荘子は終生官職につくことはなかった。ある国の宰相として招かれたとき、荘子は次のように問い返して、その申し出を断わったという。
おまえさんは郊祭(郊外で天を祭る儀式)につかう犠牲の牛を見たことはないか。あの牛は、数年のあいだ大切に養われ、きれいなぬいとりのある衣裳をさせられて大廟に入れられる。そのときになって、犠牲として殺されるのがいやだからとて、子豚になりたいとのぞんでも、そんなことができるかい。さっさと立ち去ってくれ。そして、わしを汚さないでくれ。わしは、むしろ、きたならしい演の中でのうのうと遊んでいたいのだ。国家を保有するもの――諸侯などに拘束されたくはない。(司馬遷 『史記列伝一』、野口定男訳、平凡社)

 荘子は君主にへつらう廷臣たちを蔑み、そのひとりに向かってこう言った。
秦王が以前病気になったとき、医者を招いたことがあった。その医者のうち、はれものをつぶし、できものの膿を出したものには車′台をあたえたが、痔をなめて治療したものには車五台をあたえたということだ。つまり、治療する場所が汚ければ汚いほど、褒美の車も多いというわけだ。お前さんも、きっとその痔をなめたにちかいない。それだけたくさんの卓をせしめてきたのだからな。まあ、さっさと帰ってもらおうか。(『荘子V』、森三樹三郎訳、中央公論社)

荘子が書いたとされる文章の大きな特徴は、古代中国のほかの思想家には見られない独創的な想像力だ。短い例をひとつあげよう。ここには、孔子や墨子(伝記4、5) の思想においてなによりも重視された絶対的真理を否定する荘子の姿勢が表れている。
いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は嬉々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、‥心ゆくままに飛びまわっていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まざれもなく荘周そのものであった。
いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。
けれども荘周と胡蝶とでは、たしかに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかない
のは、なぜだろうか。
ほかでもない、これが物の変化というものだからである。(『荘子T』、森三樹三郎訳、中央公論社)

荘子のもっとも重要な思想は「無為自然」 である。荘子はしばしば、道家思想の伝説的な始祖で偉人な思想家の老子とならび称される。それは主としてこのふたりの思想に、無為自然を尊ぶという点で共通するものがあるからだ。しかし、老子と荘子のあいだには本質的な違いがある。老子の思想が共同体全体の幸福への関心を示しているのに対し、荘子はより個人主義的であり、何物にもさまたげられない自由を精神世界に求めている。荘子は儒教思想の中核となっている道徳や社会規範のような、あらゆる「人為的な」教義に反対した。荘子にとってただひとつ真実といえるのは、天地自然の原理、すなわち「道」だ。「道」は自然を成り立たせる力であり、万物の源である。天地自然のなかでひとりの人間がどう生きればいいのかと考えたとき、荘子の答えは「遊」、あるいは「遣遥」とよばれる態度だった。それは現実から解き放たれて、絶対的自由の世界に入ることだ。

現存する『荘子』は、内篇のみが荘周その人による著書で、外篇・雑篇は後世の偽書であるとの見方が一般的である。『史記』「老子韓非列伝」によれば『荘子』の書は十万余字であった。『漢書』「芸文志」によれば、もとは五十二篇あったという。
金谷治の説では、これらの篇が『荘子』として体系化されたのは、『淮南子』を編集した淮南王劉安のもとであろう。老子と荘子をまとめて「老荘」と称すのも『淮南子』からである。
晋代、郭象は漢の時代の荘子テキストを分析して、荘周の思想と異なるものが混じっていたために10分の3を削除して、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇にまとめ、現在の三十三篇に整備した。それが現行の定本となっている。現在の字数は約6万5千字である。郭象はまた『荘子注』という注釈書も残した。
唐の時代、道教を信仰した玄宗皇帝によって荘子に「南華真人(南華眞人)」の号が贈られ、書物『荘子』も『南華真経(南華眞經)』と呼ばれるようになった。

他書との関係
「老荘」といわれるように、老子と荘子の間には思想的なつながりがあると思われがちだが、「内篇」についてはない。のちに前述の淮南王劉安のところで『老子』と『荘子』が結びつけられ、外篇・雑篇の中にはその路線で書かれたものもある。
一方、『論語』など儒家の文献を荘子が読み込んでいたことは、『荘子』の中に孔子がたびたび登場することからわかる。儒家の中でも、同時代の孟子などとはつながりがなかったようである。
列子(列禦寇)は荘子の先輩の道家思想家である。『荘子』の中にも列子が出てくる話がある。ただ現在残る『列子』は問題のありすぎる書物であり、列子その人の作とは考えられない。『列子』と『荘子』の間には同じ話が出てくるが、おそらく『荘子』の方が先で、『列子』がそれを取り込んだのであろう。

内容
『荘子』は無為自然を説く。ただしその内容は、各篇によってさまざまである。
内篇では素朴な無為自然を説くのに対し、外篇・雑篇では「有為自然」、すなわち人為や社会をも取り込んだ自然を説いているという。
雑篇になると、たとえば「説剣篇」のように、あきらかに荘子本来の思想ではないものも混じっている。
固有名詞をまったく使わない『老子』と違って、『荘子』の中には実在の人物のエピソードが数多く含まれている。もっともそれらのほとんどは寓言であり、歴史的資料になるものではないが、当時の風俗を知る上で貴重な資料となっている。登場回数が多いのは孔子とその弟子たちで、『荘子』では、孔子は道化役にも、尊敬すべき人ともされている。

後世への影響
荘子は特に晋代に好まれた。竹林の七賢の一人阮籍は、もっとも荘子・老子を好んだと晋書に記されている。また、荘子のテキストが確定したのも晋代である。
郭象注以外の主な注釈としては、宋時代では、林希逸(1193-1271)の『荘子口義』があり、また、封神演義の著者の一人とされている明の陸西星にも注釈書『荘子副墨』がある。日本では江戸時代に『荘子口義』が広く読まれ、明治時代に漢文大系が出版されると、漢文大系に入っている明の焦рフ注釈『荘子翼』が普及した。
荘子は中国や日本の文学者に広く愛読され、李白・杜甫・蘇軾・魯迅・吉田兼好・松尾芭蕉などが影響を受けている。また、湯川秀樹は荘子を好み、学会の席上で荘子を論じたこともある。福永光司の訳・研究が有名である。



11 秦の始皇帝 中国最初の皇帝

 (前二五九〜二一〇)


中国最初の皇帝
一九七四年に、始皇帝の墳墓を守るように埋められた兵馬桶が発見された。この発見は世界を驚愕させ、秦王朝の初代皇帝、始皇帝の名は一躍世界に知れわたった。しかし始皇帝の生涯は、彼の死後一世紀以上たってから司馬遷が書いた『史記』によって伝えられたものが大半を占めている。秦を滅亡させた漢代に書かれたものなので、始皇帝に対する見方もかなり歪曲されていると考えなければならない。
秦王の政は前二五九年に、隣国の超の都で人質となっていた秦の王子を父として生まれた。幼少期の政の運命はつねに不安定だった。秦の軍勢が攻撃をしかけてくると、趙の宮廷はそのたびに敵国の人質とその家族を殺すとおどしたからだ。前二五八年に政の父は秦に戻ることができたが、妻と息子はとらわれの身のまま残された。
前二五一年に政の祖父が秦の王位につき、政の父が正式に太子に指名されて、ようやく幼い政は生まれてはじめて秦の地をふむことができた。

始皇帝の巨大な陵墓に埋められていた青銅製の馬車。実物の半分の大きさがある。

前二五〇年に政の父が秦の王位を継いだが、この王の治世はわずか三年しか続かなかった。この三年のあいだに、強力な秦軍は他国への侵攻を続けた。前二四七年に父王が崩御すると、まだ若い政が王権と急激に拡大する王国の両方を引き継いだ。
政はみずから軍を率いて遠征することはなかったが、秦の拡大に政が果たした役割は大きい。征服への意欲にくわえて、政は世襲の貴族制ではなく実力主義を支持した。そして国外から才能のある人物を熱心に探して雇い入れた。たとえば政がもっとも重用した戦略家で、長いあいだ丞相の地位にあった李斯は、秦の仇敵である楚の国の人だ。有能な大臣と将軍という無敵のコンビが手を組んだ結果、秦は次々とほかの国々を滅ぼし、その領土を併合した。文化の発達した斉は最後まで残ったが、ついには秦に飲みこまれた。前二二一年、政は秦の支配のもとに中国を統一した。
政は古代の神話的な支配者をさす三皇五帝という言葉から二文字をとって、新しく「皇帝」 という称号を作った。そして政は初代皇帝を意味する始皇帝を名のり、皇帝の称号を子々孫々に受け継がせるように命じた。
今日中国として知られる統一国家が誕生し、現代まで存在し続けることができた背景には、きわめて中央集権的な行政制度を完成させた始皇帝の熱意がある。彼は官僚制を全土に行きわたらせ、すべての郡と県を宮廷が直接支配するようにした。こうして中国の封建制はほとんど消滅した。それと同じくらい重要なのが度量衡と貨幣の統一、そしていちばん大切なのは文字の統一である。標準的な文字の制定が、中国を単一国家として保つうえでもっとも強力な要素だったといっても過言ではないだろう。
思想面では、始皇帝はおもに法家 (伝記6商軟参照) の教えに従った。法家は人民を広範囲に張りめぐらせた法や条例、規則の綱で支配しようとする学派だ。近年になって、これらの法や規則の一部の解釈や適用例が書かれた秦の書物が発見され、非常に明晰な内容と厳罰をともなう法曹学が明らかになった。たとえば、少量の桑の柴を盗んだ者は三〇円の懲役。五人以上の集団で共謀して押しこみを働いた場合は、たとえわずかな金額でも左足つま先切断の刑だった。
統一と標準化は、形あるものから精神的なものまでおよんだ。始皇帝は臣下の行動、遺徳、そして思想を統一しょうとした。何世紀も続いた分裂の時代にさまざまな学説が花開いていたために、思想の統一は並大抵のことではなかった。秦では長いあいだ法家が力をもっていたこともあり、思想の統一に手こずった始皇帝はしだいに儒家に対する反感を強め、のちに知識人に対する広範囲な弾圧をおしすすめる。弾圧が頂点に達したのが前一一三−二一二年である。始皇帝は法令によって、医薬、占い、農業技術以外のすべての本の私有を禁止した(皇帝は帝国所有の図書館に歴史書や思想書を保管していた)。始皇帝が数百人の儒学者を生き埋めにしたという話は有名だが、おそらく始皇帝を誹諸中傷するために、後からでっちあげられた可能性が高い。
始皇帝は人規模な建設計画をいくつも実行した。各地に建てられた城壁を連結して万里の長城を作り上げ、数千キロも続く幹線道路、運河、巨大な宮殿、そしてもちろん自分のための巨大な陵墓を建造した。推定によれば、秦の人目全体の一五パーセントがつねに労働者か兵士として動員されていたという。国家へのこうした奉仕は人民に大きな負担をあたえた。始皇帝を暗殺しょうというくわだてがすくなくとも三回はあったというが、むりもない話だ。

始皇帝は広大な帝国の領地を五回にわたって巡幸し、山上と海岸に自分の業積をたたえる文をき、さんだ石碑を立てた。前二一〇年の夏、始皇帝は最後の巡幸の途中で病に倒れ、かつての超の、自分が生まれたL地の近くで息を引きとった。錬金術に頼って不老不死を手に入れようとした皇帝は、こうして最期を迎えた。始皇帝の旅先の死は秘密にされ、遺体の腐臭を隠すために皇帝の馬車に臭い干し魚が積みこまれた。巡幸に同行していた末子の胡亥にとって、これはずるがしこい任官と共謀して帝位を奪うチャンスだった。胡亥と宵官のふたり組は、わずか四年たらずで強人な秦王朝の崩壊をまのあたりにすることになる。

儒家は過去の政治や文化をしばしば神聖視し、感傷的に懐古した。始皇帝はそうした儒家の思想と過去への愛着を根絶やしにしようと執念を燃やしたが、結局は秦にとって代わった漢王朝と儒家によって始皇帝の統治は悪評にさらされた。しかし、秦から二〇〇〇年たったいまも残る中国という国の形を作り上げたのは始皇帝だ。英語で中国をチャイナとよぶのも、秦という国名に由来している。秦につづく漠とそれ以後の王朝は、始皇帝を暴君とよんで非難しながらも、始皇帝が作り上げた中央集権体制を基本的な点で受け継ぎ、始皇帝が確立した広大な領卜の統一を維持しょうと努めた。始皇帝の遺産に欠けているのは文学的な功績である。秦を倒したふたりの反乱軍指導者、項羽と劉邦がそろって胸を打つ詩を残しているのとは対照的だ。







13 漢の武帝 領土を拡大した中国の皇帝

   領土を拡大した中国の皇帝(前156年一前87年)


中国の領土を拡大したことで後世に名を残した武帝は、前一四〇年に一六歳で即位して漠の七代皇帝になった。
武帝の父と祖父は政府の出費を倹約し、課税を低く抑えて、自由放任主義の経済政策をとったことで知られている。土地に課せられる租税は、はじめは収穫量の六・七パーセントだったが、それが三・三パーセントまで軽減され、廃止された時期もひんぽんにあった。そのおかげで人口は急速に増え、かつてない繁栄がもたらされた。当然、こうした国内政策は対外関係、言い換えれば周辺諸国との関係が安定していなければ不可能だ。とくに北の強力な遊牧国家、旬奴との関係は重要だった。こうした政策はすべて、精力的な若い武帝の時代に変革されることになる。前二五年、道家思想に傾倒していた祖母の賓太皇太后(五代皇帝の文帝皇后)が亡くなると、武帝は本格的に改革に着手した。

年若い皇帝は儒教を奨励しはじめた。以後、儒教は二〇〇〇年ものあいだ、東アジアの主要な思想として定着することになる。また、武帝は軍国主義と拡大主義を特徴とする「対外政策」をとり、北方の遊牧民の帝国である旬奴にきわめて積極的に立ち向かった。
即位まもなくから武帝は軍事や外交に才能のある者を熱心に招集した。父と祖父の代に蓄積した豊かな財政を頼りに、武帝は旬奴に遠征をくりかえした。とくに前一二一年と前一一九年には大きな成果を上げている。漢との戦いによって、かつておそるべき力を誇った遊牧民族は大打撃を受け、「ゴビ砂漠より南に王庭(匈奴の本拠地)なし」と昔の歴史書にあるように、旬奴はゴビ砂漠のはるか北に逃げさった。漢は北方の防衛のために大規模な軍事設備を建設した。この頃延長された万里の長城は、要所に監視塔が建てられ、歩哨の詰め所があり、規在のモンゴルまで入りこんでいた。

いっぼう、武帝は中央アジアにおける漢の勢力を確固たるものにするために軍事力と外交を駆使し、シルクロード沿いの商人の往来を格段にやりやすくした。北部と北西部に向かって領域を拡大するいっぼうで、武帝は中国東北部と朝鮮半島にも兵を送り、その地域に四郡を置いた。
南方への進出もめざましかった。長江の南に広がる広大な土地は、当時大部分が異民族の国家になっていた。
武帝は将軍と兵を南方に派遣して定住させ、現在の広州市とベトナム北部までを征服し、拡大する帝国に組み入れた。
武帝は出費のかさむ軍事遠征を財政面で支えるため、製鉄と塩の販売を国の支配下に置いた。また、父の代から世襲の諸侯王(劉邦の功臣や一族で王位と封土をあたえられた者)の国や封土(功臣に褒章としてあたえられた領地)を完全に中央政府の支配下に置く中央集権化が徐々に進められてきたが、武帝はこれを完成させた。

武帝は皇后だったいとこを離縁し、身分の低い歌姫を皇后にしたといわれている。この皇后の弟や甥は匈奴との戦争で将軍として活躍した。また、武帝の妃のひとりの兄は、「天馬」とよばれる伝説的な名馬を大宛(フエルガナ)から手に入れるために、莫大な費用をかけた中央アジアへの軍事遠征に派遣された。
武帝は(前九一年に皇太子が関与を疑われた謀反事件の後で)寵姫が生んだ幼い息子を皇太子に立て、その母を(政治の実権をにざるのをおそれて)殺害するという冷酷な手段をとって、皇位の平和的な継承を確実にした。
現世の権力をもっと拡大したいと願った秦の始皇帝(伝記11)など昔の支配者たちと同様に、武帝は不老不死や呪術に夢中になった。道教の神秘主義、錬金術や占星術と結びつけられることの多い不老不死の霊薬や仙人を求めて、武帝は宮殿に高い建造物を作り、山上や海岸にひんぽんに出かけた。征服によって漢代最大の領土を獲得したことで知られている漢の七代皇帝は、その武勲をたたえて死後に武帝という称号を贈られた。武帝の遺産のひとつは、たとえ一部の地域であっても、中央アジアに現在まで続く根強い中国の影響を残したことだ。




15 司馬遷 歴史家

司馬遷の父は漢の武帝(伝記13) のもとで国家の文書や歴史をつかさどる太史令という役職につき、中国の歴史書の執筆をはじめた。司馬遷は前一四五年か一三五年に、中国文明発祥の地である黄河流域で誕生したといわれている。学者であり思想家で、儒教を中国の主流の思想にした董仲静に『春秋』(孔子が編纂にかかわったとされる春秋時代にかんする史書)を、孔子の子孫に『尚書』(中国最古の歴史書)を学んだ。
型どおりの学問を終えた後、司馬遷は大旅行に出発し、広大な漢帝国を広範囲に視察する。とくに長江流域の南部諸地域は、北部の人々にとってはいまだに辺境の地だった。この旅行で史実や伝説をふくめて数多くの史跡をめぐったことが、司馬遷の将来に大きな影響をあたえた。
司馬遷は、皇帝の侍従のなかでもいちばん低い郎中という職につき、武帝のたび重なる巡幸につき従った。

司馬遷の著作『史記』の一部



前110年に、司馬遷の父がまだ書きかけだった史書の完成を息子に託して亡くなった。三年後、司馬遷は父がつとめていた太史令の地位をあたえられた。新しい暦の制定を指揮し、前一〇四年にその暦が採用されると、司馬遷は父が残した歴史書の執筆にとりかかる。父の書きためた原稿だけでなく、宮廷図書館に所蔵された文書もおおいに役立てた。
前九九年、漢は匈奴に大規模な攻撃をしかけた。将軍李陵は、五〇〇〇人の歩兵を率いて敵地の奥まで侵入したが、一〇日以上も戦ったすえに降伏した。司馬遷は李陵を公然と弁護したために逮捕され、死刑を宣告された。
この時代には賄賂を贈ればこうした罪には恩赦が得られた。しかし太史令という地位は俸給が低かったので、司馬遷が死刑をまぬがれるには、去勢して昏官になるという屈辱的な刑へ変更を願い出るしかなかった。そのときの心境を司馬遷はこう述べている。「死はだれにでも等しく訪れる。しかしその死は泰山より重いときもあれば、羽より軽いときもある。子孫に何も残せないのなら、その人の死は九牛が一毛を失う程度のものでしかないだろう」。刑を執行される前に自害する人が多いなかで、司馬遷は生きながらえて歴史書を完成させる道を選んだのだ。
任官に身を落とすという屈辱に耐えて、司馬遷は一心不乱に『史記』 の執筆に打ちこんだ。『史記』は古代から司馬遷の時代(彼は前九〇年をすぎてから亡くなった)までの中国の通史である。この作品によって司馬遷は中国における歴史書の父とみなされている。
『史記』は年代記を執筆する際の模範となり、紀伝体(支配者の年代記である「本紀」と臣下の伝記である「列伝」を中心に構成された歴史書)という形式を生んだ。紀伝体はその後のあらゆる王朝が編纂した歴史書に採用されている。『史記』はいまでも中国古代史の主要な情報源である。司馬遷はつねに公正で信頼にたる歴史家というわけではなかったが、彼による股王朝の系図はきわめて正確であることが、股王朝から数千年後に発掘された甲骨文字との比較で明らかになった。『史記』は文学作品としてもすぐれた価値を認められている。




17 班氏 歴史家

歴史家
歴史家としての班氏の元祖は班彪(三−五四)である。「蛮族」とよばれた旬奴出身の家系でありながら、王莽による帝位簑奪後の漢の復興に貢献した。また、姓氏は中国でははじめてひとつの王朝だけの歴史書である『漢書』を編纂して後世に名を残した。その大事業をはじめたのも班彪だ。
司馬遷は古代から彼が生きた時代までの通史である『史記』を執筆した。班彪は司馬遷の仕事を引き継いで、前漢全体の通史を記録したいと願ったが、数十章を起草したところで世を去った。
班彪の長男の班固(32−92)は、早くからなみはずれた文才を示していた。班彪の友人で弟子でもある王充は、班固を「漢の歴史を記録するために生まれた人物」と評している。班彪が亡くなると、班固は太学という国立大学を中退して父の仕事を完成させるために精力をそそいだ。
この史書の編纂は公に認められたものではなかったため、班固は六二年に逮捕されたが、弟の班超(33−102)が都にかけつけて明帝に弁明した。文学好きな明帝は、没収した原稿に目をとおして感銘を受けた。班固は歴史的資料を管轄する部門に正式に任命され、宮廷図書館に所蔵された資料や記録を『漢書』の執筆に役立てることができた。
班超は筆写をして生計を立てていたが、「男たるものは張番(伝記14)を見習い、異国の地で血わき肉おどる冒険に身を捧げるべきだ」と決意した。身分の低い宮中の書記として短期間つとめた後、班超は対匈奴遠征に参加し、その後は使者として西域諸国 (中央アジア) に派遣された。
漢の西域支配は王莽によって漢が中断した時期に失われ、この地域はふたたび匈奴に征服されていた。班超は徐々に中央アジアにおける漢の優位を回復することに成功した。九一年に班超は正式に西域都護(西域を統括する官)に任命される。三年後、西域の五〇数か因が漢の属国となり、漢の宮廷に子息を人質として送るようになった。翌年(九五年)、班超は候の爵位をあたえられた。九七年には班超が派遣した使節が 「西の海」の沿岸に到達した。おそらくベルシア湾のことと思われるが、地中海だった可能性もある。漢代の官吏のみならず、古代の中国人が到達したもっとも西の地点である。
一方、班園は八九年に傑出した将軍の参謀となり、匈奴攻撃の遠征にくわわった。班国は現代のモンゴル領内のハンガイ山脈に到達し、漢の勝利を記念する碑文を起草した。まもなくこの将軍が皇帝の不興をかったため、班固も逮捕されて九二年に獄死した。
そのとき『漢書』はまだ完成していなかった。ときの皇帝は班固の末の妹の班昭に命じてこの偉業を完成させた。
班昭自身もすぐれた学者であり、文筆家だった。夫に早く死なれ、夫の姓にちなんで曹大家とよばれた。班彪が執筆を開始してから八〇年近くかけて『漢書』はようやく完成し、漢に続くすべての王朝が作成する歴史書の模範となった。
班昭は貴族の娘や后妃の師範として深く尊敬された。教え子のひとりである都皇太后の長い摂政政治期二〇互1一二一年) には、重要な政治的役割を果たした。班昭の著作は、知られているかぎりでは中国初の女性作家による作品である。班昭のもっとも有名な文章のひとつは 『女誠』 で、妾は夫をうやまい、家事を大切にすることなど、二〇世紀初めまで受け継がれた女性の正しい生き方の規範を述べている。読み書きができない人が多く、とくに女性はそれがあたりまえだった時代に、班昭が書き残したすぐれた作品はまさに驚異的というほかない。
中央アジアで三〇年以上任務についた後、班超は帰国を願い出たが、漢の宮廷では班超に匹敵する後継者を見つけられなかったので、すぐには許可が下りなかった。班昭が兄のために宮廷とのあいだをとりもったおかげで、班超はようやく一〇二年の夏に漢の都に帰還し、英雄として出迎えられた。班超はその後一か月たらずのうちに六九歳で亡くなった。数十年後、今度は班超の有能な息子の班勇が西域を平定した。




中国の史書で有る「司馬遷の史記」、「班固の漢書」、「范曄の漢書」は、中国及び日本の読書人と言われる人々は、必ず読むべきものとされた史書の様です。

さて漢書は「前漢書」とか「西漢書」とか言われ、漢の高祖から新の王莽まで書いて有り、後漢の班固(31年〜92)と父の班彪、及び子女の班昭が関係していた。また次兄の班超は西域に出征し大功を立てたけれど、都に戻れたのは出征後31年だったと言う。漢書の著者であった長兄の班固は、後に罪に連座し獄死している。この事が後の班昭の一生を決定付けしたかと思われる。

ここでは妹の班昭について語ろうと思う。中国人が誇りとする漢朝時代は前漢と後漢とに分かれるが、これは前漢の途中に王莽の皇室簒奪が有って、例によって世が乱れに乱れ(赤眉の乱等)前漢は消滅してしまったのです。それを立て直し後漢を建国したのが、有名な「劉秀」で後に光武帝と呼ばれる。(但し、光武帝の前に更始帝が立ったが短命だった)

後漢王朝は凡そ280年の歴史が有って(徳川幕府とほぼ同じ)、この時代を代表する女性が三人いるのです。先ず一人は第三代皇帝の「章帝」の皇后であった「和帝」を擁した「トウ太后」で有り、更に四代和帝の「トウ皇后」で有った。(トウの漢字は、このダイアリーではコードが無く文字化けしてしまう)

前漢時代から学問の世界で生きた班氏の家では、恐らく古くから伝わる「詩文」や「春秋左氏伝」、「毛氏」、「尚書」は基より「儒学書関係」等も豊富に揃っていたに違いない。班固と班超の二人の兄達は年子で、妹の班昭は14歳ほど離れていたと言う。班昭は二人の兄達に可愛いがられ家学(経学)も進んだに違えない。

先ほどの和帝が26歳で早死すると、トウ太后は班昭を宮中に入れて、儒教的精神で政務に当たったので有る。班昭の意見を取り入れると共に、宮中の女人達にも儒教教育を施したに相違ない。

運命を左右するのは天で有って、それは人間の力ではどうする事も出来ない。但し、努力して「仁」に近づく事は出来るだろう。聖人を鏡として仰ぎ「忠恕」に道を尽くし、正しい人に与すれば、誠の心は必ず天地神明に通ずるだろう。

この様な考えは儒教の教えそのもので、宮中に登った班昭の教えと行動は、まったく儒教そのもので有ったのです。

ここで面白い出来事が起きるのですが、班昭には子息の「子穀」と言う者が居て、この者の忠勤を愛でた「トウ皇后」は関内候に任じるので有る。班昭はこの子息の任地に同行するので有るが、既に68歳の高齢で有ったと言う。その同行記が有名な文選に書かれた「東征賦」で有る。

長兄(班固)は大学者では有ったのですが政敵に敗れ61歳で獄死し、次兄は西域で大将軍とは言われたが、許されて長安に戻ったのは出征した31年後で有った。妹の班昭は68歳になって倅の任地に同行する事等は想像もしなかったと思われる。兄弟姉妹と言えども、天が決めた運命によってのもバラバラに離れてしまうのです。



写真は班昭が晩年に書いた「東征賦」で有る。東征賦は文選の巻九に載っているが、これは息子が任地(現在の河南省開封の近く)に赴任する時に同行し、その時に書かれたもので、一種の紀行文で有る。班昭は既に68歳で有ったと言われる。

これ永初の有七(永初七年)、余は(ワタシワ)子に従って東に往く。時は孟春の吉日、良辰を選んで将(マサ)に行かんとす。略

これは冒頭の書き出し部分で有り、文選に選される名文の様で有る。東征とは都の洛陽から東方に行くので付けられたと思うのですが、もしも都から西方に行くなら西征と言う訳です。事実文選には西征賦も載っていて、中国ではこの方位を何かと重視する様です。

さて班昭には有名な「女誡」が有って、これは息子の任地に付いて行く前の永元12年(100年頃)から書き始められ、目的は娘の為に書き残したものだと言われる。この著作は女性に対する誡(イマシメ)とも読めるから、現代女性にとっては口煩くて、題名を読んだだけで捨てられてしまうと思われるのです。事実「女誡」の中には「詩経」の中の「斯干篇」に見える「すなわち女子を生めば、すなわちこれを地に寝せて、すなわちむすきを着せ、すなわちこれに瓦をもてあそぶ、悪しき事も無く良き事も無く、ただ酒食これを議して、父母に憂いを残す事なかん」と有って、男子と比べればその差は雲泥なのです。

さらに班昭は経学の家に生まれた者で有って、女性の躾に喧しいから「女には四行有り「として一には婦徳、二には婦言、三には婦容、三には婦功を上げている。これには解説が有って、婦徳とは静かにして折り目が正しい事を言え、婦言とは口に気を付け出しゃばらない事、婦容とは身きれいにしている事を言え、婦功とは心を専らにして談笑を好まず、客にはは酒食を用意して供する事だそうです。いずれにしても即ち「儒教」の教えを実践したものだろうが、これまで言われると男尊女卑で有って、儒教がいくら仁を説いた物では有っても流行らず、廃れる原因でも有る訳です。

さて話は前に戻るが、息子さんには当然として嫁さんも同道したと思うのですが、この様な舅さんではさぞかし煩かったと思うのです。班昭の長兄で有った班固は大歴史家では有ったのですが、世渡りが下手で結局は政敵に狙われて獄死してしまうのだが、この様なサマを見てたから、息子の進退を監督する為に老いの身を顧みず、付いて行ったのでしょうか。親の子を思う気持ちは二千年経っても変わらないのですね。



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