文選・古詩源・玉臺新詠 研究のサイト
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文選 「賦・詩・文」Toppage
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻[1]。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。
「文選」時代背景
『文選』の撰者である昭明太子蕭統は、梁の武帝の長子として生まれた。武帝は南斉の宗室の出身であり、学問・文才にも長じ、即位前は竟陵王蕭子良のもとで、沈約・謝?ら当時を代表する文学仲間である「竟陵八友」の一人に数えられていた。太子はこのような学問好きな父の方針により、他の兄弟と同じく、幼い頃から当代一流の学者・文人を教師として学問や文学を学んだ。こうした環境のもとで育てられた太子は、学問と文学を愛好するのみならず、文化の保護や育成にも心を砕くようになった。太子の居所である東宮には約3万巻もの書が集められ、その周囲には多数の学者・文人たちが、学問研究や著作活動に従事することになった。
『文選』が編纂されたのには、こうした昭明太子の文化的環境が大きな役割を果たしていた。『文選』の撰者名は昭明太子1人に擬されているが、実際の編纂には劉孝綽ら彼の周囲にいた文人たちが関わっていたとされている。
後世への影響
隋唐以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉まで残している。また宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡が生まれている[3]。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。
『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該(蕭恢の孫、昭明太子の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、江都(現在の江蘇省揚州市)の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・李善ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。
曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年(顕慶3年)、唐の高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「李善注」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。
李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、718年(開元6年)、唐の玄宗に献呈された、いわゆる「五臣注」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。
宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「六臣注」(「六家注」)が通行し[4]、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、南宋の尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年(淳熙8年)に刊行したものの系統であるとされる。これを清の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、嘉慶年間に覆刻した。この「胡刻本」が、今日最も標準的なテキストとして通行している。
このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。
文選に掲載された時代別作者
時代 |
作 者 |
周 |
卜商 屈原 宋玉 荊軻 |
秦 |
李斯 |
漢 |
漢高帝 漢武帝 賈誼 劉安 韋孟 枚乗 鄒陽 司馬相如
東方朔 司馬遷 李陵 蘇武 孔安国 王褒 楊雄 班u、
劉イン 楊ツ 古辞 |
後漢 |
班彪 朱浮 班固 傅毅 張衡 馬融 史岑 王延寿 孔融
禰衡 范勗 陳琳 楊修 王粲 繁欽 班昭 崔エン 蔡ヨウ 阮う
劉貞 應ヨウ |
蜀 |
諸葛亮 |
魏 |
魏武帝 魏文帝 曹植 呉質 繆襲 李康 曹冏 何晏
阮籍 鍾会 ケイ康 應キョ |
呉 |
韋曜 |
晋 |
応貞 傅玄 皇甫謐 趙至 杜預 棗拠 成公綏 向秀 劉伶
夏侯湛 傅咸 孫楚 張華 潘岳 何劭 石崇 張載 陸機 陸雲
司馬彪 張協 潘尼 左思 張悛 李密 王讃 欧陽建 郭泰機
木華 郭璞 亮 袁宏 干宝 桓温 孫綽 束皙 張翰 殷仲文
謝混 陶淵明 |
宋 |
謝瞻 傅亮 謝恵連 謝霊運 范曄 袁淑 顔延之 謝荘 鮑照 劉鑠 王僧達 王微 |
斉 |
王倹 王融 陸厥 孔稚珪 |
梁 |
范雲 江淹 丘遅 沈約 王巾 虞羲 劉峻 昭明太子 |
■ 李白詩研究の基本詩集
● 李白集校注 |
● 李太白集 |
● 全唐詩・全唐文 李白 |
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- 全唐詩/
- 巻161-185
- 全唐文
- 巻347-350
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李 白(701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士[1]。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称される。
李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明である。『旧唐書』本伝の記述では山東の出身とするが、清の王gなどをはじめ、通説はこれを誤りとする。
李陽冰の「草堂集序」および范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」、さらにこれらを踏まえたとされる北宋の欧陽脩『新唐書』などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王・李ロの9世の後裔とする。李白の先祖は、隋末の時代、何らかの事情で西域の東トルキスタンのあたりに追放され[2]、姓を変えてその地で暮らしていたが、中宗の神龍年間、西域から蜀(現四川省)に移住し、李白の誕生とともに李姓に復したという。
20世紀になると、陳寅恪らが李白を西域の非漢民族の出身とする新説を出した。日本の研究者でも松浦友久などが、李白の父が「李客」と呼ばれ、正式の漢人名を持ったという形跡がないこと、また後年の李白が科挙を受験しなかったことなどを根拠にこの説を支持している。岡田英弘と宮脇淳子も、「有名な詩人の李白はテュルク系といわれ、杜甫の詩にもアルタイ系の言語的特徴がみられる」と述べている[3]。楊海英も、「そもそも詩仙と呼ばれた李白自身は、テュルク系であった可能性が高い。また詩聖の杜甫の項にも、『遊牧民の天幕で酒を飲んで、テュルク風の踊りを楽しむのが大好きだ』という詩があるほどだ」と述べている[4]。
現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。
いずれにしても、遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられている。
「草堂集序」「新墓碑」『新唐書』などが伝えるところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。伝記や自身が書いた文章などによると、この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際したとある。この頃の逸話として、益州長史の蘇?にその文才を認められたこと、東巖子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、蜀の鳥を飼育し共に過ごしながら道士の修行をし、山中の鳥も李白を恐れず手から餌をついばんたこと、峨眉山など蜀の名勝を渡り歩いたことなどが伝わる。
725年(開元13年)、25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている[5]。732年、32歳の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。740年、孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現山東省)に集まり、「竹渓六逸」と呼ばれることもあった。また730年あるいは737年の頃に、長安に滞在して仕官を求めたというのが近年の研究から通説となっている。
742年(天宝元年)の秋、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した[6]。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、同年の冬、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから、宮廷人との摩擦を引き起こし。744年、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。
長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、754年には、前年に仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。
安史の乱勃発後の757年(至徳2年)、当時、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李?の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、将軍・皇甫?と高適の追討を受けて斬られた。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた。その後、崔渙・宋若思(宋之問の甥、李白の旧友宋之悌の子)の助力により釈放され、宋若思の幕僚となるが、結局は粛宗の朝廷側から夜郎(現貴州省北部)への流罪とされた。配流の途上の759年(乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である[7]。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、762年(宝応元年)の冬、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。『新唐書』などにある有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。
李白には上記の「捉月伝説」以外にも様々な伝説が伝わり、後世『三言』などの小説において盛んに脚色された。
李白集校注
(杜詩詳注・杜少陵集・杜甫全詩訳注)
集註杜工部詩 全十巻
玉臺新詠 全十巻
●韓昌黎詩集
韓昌黎文集校注
●李商隠詩歌集解
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ブログ |
李商隠詩140首 訳注解説ブログ 目録 |
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全唐詩 |
巻五三九 |
巻五四〇 |
巻五四一 |
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全唐文 |
巻七七一 |
巻七七二 |
巻七七三 |
巻七七四 |
巻七七五 |
巻七七六 |
巻七七七 |
巻七七八 |
巻七七九 |
巻七八〇 |
巻七八一 |
巻七八一 |
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李義山詩歌集解 |
第一冊 |
第二冊 |
第三冊 |
第四冊 |
第五冊 |
この文はみごとな四六駢儷体で書かれている。四六文には作法上厳密な規則があるが、ここには作法を述べるのが主旨ではないから説明を省くが、読者として特に注意したいことは、対語・対句に十分気をつけて見ねばならないことである。この文は便宜上、四段に分け各段ごとに区切って解説することにする。
駢文(べんぶん)とは、中国の文語文における文体の一つ。「駢体」または「駢体文」ともいう。散文・韻文に対立する文体で、魏・晋のころに形成され、六朝時代から唐にかけて盛行した。
「駢」とは2頭の馬が並んでいることを表し、対句を基本とする文体であることを意味している。「駢儷文」(べんれいぶん)あるいは「駢儷体」ということもあるが、「儷」(または「麗」)もまた「ならぶ」という意味である。また1句の字数が、4字句または6字句を基調とするため、「四六文」(しろくぶん)とも呼ばれた。「四六」の語は晩唐から使われはじめ、宋から明にかけて使われた。「駢文」の名は用いられるようになったのは清代においてである。これらを合わせて「四六駢儷文」または「四六駢儷体」と呼ぶこともある。また「駢四儷六」ともいう。さらに駢文の中には、平仄など韻律面を整えたものもある。
(六朝末期に編集された詩集である《玉臺新詠》)の序文。この詩集は、陳の徐陵が撰したもので六朝の新樂府を産出せしめる、当時の思想信条、感情に大きく反映せしめるものであった。)
そもそも高く雲零を凌ぎ天の太陽と高さを斉しくする豪華な宮殿は(春秋時代の)晋の由余も未だ曾て見ない所であった。
千門万戸の盛況は、漢の張衡が著書の《西京賦》」にえがき出した通りである。
そして、そこは、さながら周の穆王の壁台の上なのか、あるいは漢の武帝の金屋の中かと見まごうばかりであるばかりか、玉樹は珊瑚を枝としているのである。
珠簾は玳瑁ではめこみの鎮飾がほどこされてあり、その中に「宮中内職制度」により、多くの美人が住んでいるのである。
○唐代の女性
<貴族の婦人>
《洛陽女兒行》 王維
洛陽女兒對門居,才可容顏十五餘。
良人玉勒乘?馬,侍女金盤膾鯉魚。
畫閣朱樓盡相望,紅桃獄垂簷向。
羅幃送上七香車,寶扇迎歸九華帳。
狂夫富貴在青春,意氣驕奢劇季倫。
自憐碧玉親教舞,不惜珊瑚持與人。
春窗曙滅九微火,九微片片飛花?。
戲罷曾無理曲時,粧成只是檮″ソ。
城中相識盡繁華,日夜經過趙李家。
誰憐越女顏如玉?貧賤江頭自浣紗。
洛陽女児の行 王維
洛陽の女児 門を対えて居り、機かに容顔 十五余りなる可し。
良人は玉の勒もて聴馬に乗り、侍女は金盤もて鯉魚を檜にす。
両閣朱楼 尽く相い望み、紅桃縁柳 蒼に垂れて向う。
羅韓 送り上く 七香の車、宝扇 迎えて帰る 九華の帳。
狂夫は富貴にして 青春に在り、意気は鵜奢にして 季倫(晋の富豪石崇)より劇し。
自ら憐む 碧玉(侍妾を指す) 親しく舞を教うるを、惜しまず 珊瑚 持して人に与うるを。
春窓曙に滅す 九微の火、九微片片 飛花頂かなり。
戯に罷れて曾て曲を理むる時無く、汝成りて祗だ是れ香を薫らせて坐す。
城中の相識は尽く繁華、日夜 趙李(漢の美女趙飛燕と李夫人)の〔如き富豪の〕家を経過す。
誰か憐む 越女の顔 玉の如く、貧賤にして江頭 自ら紗を院うを。
これは唐代の詩人が描いた貴族の女性たちの富貴にして豪華、優閑にして享楽的な生活の姿である。
《相逢行》 崔
妾年初二八,家住洛橋頭。
玉?臨馳道,朱門近御溝。
使君何假問,夫壻大長秋。
女弟新承寵,諸兄近拜侯。
春生百子殿,花發五城樓。
出入千門裏,年年樂未休。
(相逢の行) 崔
妾が年は初めて二八、家は住む 洛橋の頭。
玉戸は馳道に臨み、朱門は御溝に近し。
使君は何ぞ問うを仮いん、夫壻は大長秋(皇后の近侍)。
女弟は新たに寵を承け、諸兄は近ごろ侯を拝す。
春は生ず 百子の殿、花は発く 五城の楼。
干門の裏に出入し、年年 楽しみ未だ休まず。
この貴戚の家の若い妻とその妹は宮中で寵愛を受け、夫や兄弟は侯に封ぜられ、あるいは官となり、彼女の生活は何の憂いも心配もない―(年年 楽しみ未だ休まず)である。
貴族の女性たちといえば、人々はすぐ有名な楊貴妃の三姉妹の韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の三人を思いだすだろう。楊貴妃が寵愛を受けたので、三姉妹は同時に国夫人に封ぜられ、玄宗から各人毎月十万銭を支給されたが、それは専らお化粧代としてであった。平生の皇帝からの賜り物は、さらに多く数えきれないほどであった。彼国夫人の「照夜瓊」、秦国夫人の「七葉冠」などは稀代の珍宝であった。韓国夫人は祝祭日に山上に百本の灯火を立て、その高さは八十尺もあり、煌々たる明るさは月光に勝って、百里の遠くからも眺められた。彼女たちはそれぞれ大邸宅をつくり、その華麗宏壮なることは皇宮に匹敵し、一台閣を造営するごとに費やす金は千万を越えた。もし規模が自分の台閣を越える建物を見たりすると、元のをとり壊して新しく造り直させた。遊覧に出かける時は一家あげて一団となり、みな同じ色彩の衣服を着、彼女たちの乗る車馬とお付きの従僕が道路を塞ぎ、それぞれの牛車の上に飾られた珍宝珠玉の値打は、数十万貫を下らなかった。車が通った後は装身具や珠翠が道いっぱいに落ちていた。ある時、彼女たちは宮中で玄宗の側に侍り音楽を楽しんでいた。玄宗は自ら鼓を打った後、笑いながら秦国夫人に褒美を求めた。秦国夫人は「私は大唐帝国の天子様の姉ですもの、お金が無いわけはないでしーっ」といい、すぐ三百万銭をとり出して笑わせた(以上の話は、『開元天宝遺事』、『明皇雑録』、楽史『楊太真外伝』等に見える)。
当時詩人の杜甫は、名高い「麗人行」なる詩を書いて、この三人の夫人が春遊する豪華絢爛たるさまを次の詩のように描写した。
《麗人行》杜甫
三月三日天氣新,長安水邊多麗人。
態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉?。
繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。
頭上何所有,翠爲葉垂鬢脣。
背後何所見,珠壓腰?穩稱身。
就中雲幕椒房親,賜名大國?與秦。
紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。
犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。
黄門飛?不動塵,御廚絡繹送八珍。
簫管哀吟感鬼~,賓從雜?實要津。
後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。
楊花雪落覆白蘋,鳥飛去銜紅巾。
炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。
(麗人の行)
三月三日 天氣 新たに,長安の水邊 麗人 多し。
態は 濃く 意は 遠くして 淑 且つ 真に,肌理きりは 細膩にして骨肉は ?し。
繍羅の衣裳は 暮春に 照はゆる,
蹙金の孔雀 銀の麒麟。
頭上 何 の有る所ぞ,翠を 葉と爲なして 鬢脣んに 垂たる。
背後 何 の見る所ぞ,珠は 腰?を壓して 穩やかに身に稱ふ。
就中づく 雲幕の 椒房の親,名を賜ふ 大國 ?と秦と。
紫駝の峰を 翠釜 より 出いだし,水精の盤に 素鱗 行くばる。
犀箸 厭飫して 久しく未だ下さず,鸞刀 縷切 空しく紛綸たり。
黄門 ?を飛ばして 塵を動かさず,御廚 絡繹として 八珍を送る。
簫管 哀吟して 鬼神をも感ぜしめ,賓從 雜?して 要津に實つ。
後れ來きたる 鞍馬は 何ぞ 逡巡する,軒に當たりて 馬より下りて 錦茵に入る。
楊花 雪のごとく落ちて 白蘋を覆ひ,鳥 飛び去りて 紅巾を銜む。
手を炙ば 熱す可べし 勢は絶倫なり,慎みて 近前する莫れ 丞相 嗔らん。
彼女たちは富責と栄華が極まったばかりでなく、まさに「手を戻れば熱かる可し 勢い絶綸」であり、公主たちでさえを二分かた譲らざるを得なかった。各クラスの官僚が彼女たちの門下に出入し、へつらったり賄賂を送ったりして栄達を求めた。彼女たちが顔を出して頼み事をすると、役所は皇帝の詔勅のごとく見なして奔走し、不首尾に終わることをひたすら恐れた。一般の官僚で彼女たちに逆らおうとする人はいなかった。彼国夫人は章嗣立の宅地に目をつけると人を連れて行き、その家を有無を言わさずぶち壊し、章家にはただ十数畝の上地を補償しただけだった。
この三夫人は一時に天下第一の貴婦人になったが、しかしすべては楊貴妃が天子の寵愛を得た御蔭によるものであった。だから、彼女たちの運命も楊貴妃の浮沈によってたやすく左右されたのである。安史の乱の時、馬鬼の兵変で楊貴妃は絞殺され、三人の夫人も避難の途中で先後して殺され、遺骨も残らない悲惨な末路となった。
貴族の女性たちの中で、彼女たちほど豪勢で贅沢な生活をした人々は決して多くはないが、富貴で栄華を極め、金を湯水のごとく浪費するのは、貴族の女性に一般的なことだった。武則天の寵臣張易之の母阿蔵の家には七宝帳があり、その表面は各種の金銀珠玉で飾られていた。また彼女の家では象牙で床を作り、犀の角で筆を、紹の毛皮で柳を、こおろぎの羽で艶を、龍槃と鳳咽で席を、それぞれ作ったが、それらは当時の人々がいまだ見たこともないものだった(『朝野命載』巻三)。宰相王涯の娘は玉の銭を一つ買うために父親に十七万銭を求めた(銭易『南部新書』舌。貴族の女性たちの贅沢な生活の一端がうかがわれる。
貴族の女性は衣食住の心配も家事の苦労もなかったので、年中歌舞音曲とお化粧とで暇をつぶした。
「王家の少婦」(崔鎖)に「十五にして王昌に嫁し、盈盈と圃堂に入る(美しい姿で座敷に入る)。自ら衿る年の最も少きを、復た堺の郎(郎官)為るを倚む。舞いは愛す前鶏の縁(前銘曲の緑の装い)、歌は憐れむ 子夜の長きを(子夜歌の長い調べ)。閑来せて百草を闘わし、日を度るも汝を成さず(日がな一日お化粧もしない)」とあり、また「菩薩蛮」(温庭筒)に「瀬げに起きて蛾眉を両き、汝を弄んで槐洗すること遅し。花を照らす前後の鏡、花の面は交もに相映ず。新帖き誘羅の楼、双双の金の鶴鵠」とあり、さらにまた、「〔白〕楽天の春詞に和す」(劉瓜錫)に「新たに粉面を敗えて朱楼より下る、深く春の光を鎖して一院は愁う。中庭に行き到りて花栞を数えれば、蜻艇は飛んで上がる 玉の掻頭に」とある。 これらの詩詞は、貴族の女性の富貴にして優閑の様子を描いているが、しかしここには彼女たちのいくばくかの、空虚で無聊な生活もまた表現されているのである。
彼女たちは豊かといえば豊か、地位が貴いといえば貴かったが、しかしその富貴と地位の大半は、男性の付属物たる身分によって獲得したものであった。彼女たちに富貴をもたらすことができたものは、逆にまた災難をもたらすこともできた。一家の男が一旦勢力を失うと、彼女たちも同様に付属物として巻き添えになった。そして一夜にして農婦、貧女にも及ばない官婢(国有の奴隷)となった。これが彼女たちの最も恐れたことである。厳武は剣南節度使となって相当好き勝手に振舞った。彼が死ぬとその母はむしろほっとして、フ』れからは官婢にならないですむ」といった(『新唐書』厳挺之附厳武伝)。唐代の官僚貴族の女性として、不幸な運命にめぐりあった典型的な人がいる。それは粛宗・代宗両時代の宰相で権臣となった元載の妻王報秀である。彼女が高官の娘として元載の妻となった頃、元載はまだ功名がなく王氏一族から軽視されていた。すると妻は化粧箱を売って金に換え夫に功名をあげるよう励まし、ついに元載は宰相にまで上った。彼女は実家の家族がかつて自分たち夫婦を軽視していたのを恨み、実家の家族と親戚の者が御祝いに来た時、あてつけに侍女に命じて邸内で虫干の用意をさせ、長さ三十丈の長縄四十本を邸内に張りめぐらし、そのすべてに色とりどりの錦紗銀糸の豪華な衣装をかけ、さらにまた金銀の香炉二十個を並べて衣装に香を蛙きこめた。それは第一に自らの富貴を見せびらかし、第二に親族のものを恥じ入らせるためであった。一方で王轍秀は見識のある女性であったから、夫の元載が権勢を掌中に収めた時、夫を戒めて「ご承知のように、栄耀栄華などは束の間のことです、稿り高ぶって人を辱しめてはなりません」と言った。しかし、元載はやはり終りを全うするこ詩の特徴
李商隠の詩の面目は艶情詩にある。その定型詩、特に『無題』とされる幾つかの、あるいは単に詩句から借りただけの題を付けられた律詩は、晩唐詩の傾向である唯美主義をいっそう追求し、暗示的・象徴的な手法を駆使して、朦朧とした幻想的かつ官能的な独特の世界を構築している。そのテーマは破局に終わった道ならぬ恋愛の回想であり、甘美な夢のごとき青春の記憶の叙述である。当然、内容ははなはだ哀愁を帯びるが、典雅な詩句や対句、典故で飾られ、耽美の域に達している。美しく悲しいごく私的な記憶や感慨を詩によって昇華させる、それが李商隠の詩風であった。
古来、詩は気高き志を詠うものであった。李商隠が師と仰いだ杜甫にもその傾向は顕著である。しかし晩唐という時代はそれを許さない。宮廷内にあっては牛李の党争による政変が相次いで、朝に宰相にあったものが夕に免職されて辺境に流されるがごとく。しかし実権は皇帝の廃立まで意のままにした宦官たちに握られる始末。宮廷外は軍・政両権を握る節度使が国土を分断してさながら戦国時代の状態であり、大唐帝国は実質的に一地方政権に堕していた。もはや志を詠ってもどうすることも出来ない。まして自身の行状ゆえに迫害を受ける身であっては。閉塞した時代にあって周囲の白眼視を受けながら、伝統的な詩のあり方に背を向け、ひたすら個人的な美の完成を追求した李商隠の姿勢は、ある意味硬骨であり、芸術家としての骨の太さをうかがわせるものである。
ほかに『隋宮』『馬嵬』など、歴史を題材とした詠史詩や、詠事詩にも定評がある。また、長安東南の高台で詠った五言絶句『楽遊原』は、李商隠の代表作に数えられる。
もう一つ李商隠の詩の技巧的な特徴として、僻典の多用が挙げられる。限られた字数で表現する漢詩は、誰もが知っているエピソードなどに登場する印象的な言葉を使うことで、もとのエピソードの内容を鑑賞者に連想させ、詩の内容を膨らませるという技巧を往々にして使用するが、これを典故という。ゆえに典故は、知識人階級なら誰でも知っているエピソードに由来するものでなくてはならない。たとえば経書・荘子・史記・漢書・三国志などである。が、李商隠はそれらのみならず、稗史や小説など、むしろ知識人階級が手を触れるべきでないとされた雑書の類からも典故を引いた。このことが詩に深みを与えると同時に、その難解さの一因にもなっている。ちなみに李商隠のあだ名、獺祭魚は、李商隠が詩作するさいに参考にするため、数々の書物を机の上に並べて置いたのが、川獺(カワウソ)が捕らえた魚を並べるという習性(獺祭魚)に似ていることから付けられたものであるという。
とができず、最後は罪を得て死刑に処せられた。妻の王氏は法によって官婢にならねばならなかった。彼女は天を仰いで長嘆息し、わたしは「王家の(排行)十三番目の娘と生れ、二十年間節度使であった父の娘として暮らし、十六年間宰相の妻であった。長信宮や昭陽宮でのことを誰か書いてくれる人がいるなら、死んでも幸せなのだが」といい、宮中に婢として入ることを固く拒み、ただ死ぬことだけを求めた。後に彼女は赦免されたとも、また笞打ちの刑を受けて死んだともいわれる(『雲渓友廉』巻こ一)。彼女の生涯のめぐり合わせは、まさに貴族の女性たちが夫の貴賤栄辱の運命のままに翻弄され浮沈定まらない生活をおくったことを反映している。
「栄耀栄華は束の間のことで長続きはしない」といつも恐れおののいていたほかに、貴族の婦人たちがそれこそ絶えず感じていたのは閑の孤独、夫の薄情に対する恨み、それに容色の衰え易さに対する嘆きであった。唐詩の中で百首に上る「閔怨」詩の大部分が、彼女たちのこの種の心情をよく表現している。たとえば、「閑の中の少婦(若妻) 愁いを知らず、春日 赦いを凝らして翠楼に上る。忽ち見る阻頭楊柳の色、悔ゆるは夫堺をして封侯を兌めしめしを」(王昌齢「閑怨」)、「妾は年四十にして糸は頭に満ち、郎は年五十にして公侯に封ぜらる。男児は全盛なれば日に旧きを忘れ、銀の昧 羽の帳は空しく〔風は〕鮑繩」(陳羽「古意」)などの詩。こうした心情は彼女たちがただ終日飽食し、何の心配もなく暮らしていたから生れたというだけではない。それよりも重要なのは、披女たちは下層の労働する女性たちに比べて独立した経済的能力が無かったため、男性に対する依存心が強く、また家庭の中でも地位が低かったために、夫の自分に対する感情に頼らざるを得なかった
ことによる。しかし、貴族の男たちは往々にしてたくさんの妻妾を持ち、あちこちで女色を漁った
ので、おのずから彼女たちは一日中夫の薄情に苦悩し、家庭の中での自分の行く末を案じ、従って
自分の容色の衰えを嘆く以外に為すすべがなかった。
白居易《上陽白髮人》
上陽白髮人
作者:白居易胡旋女→
文章被一個用?校對過,已經相当可靠。
愍怨曠也。
《新樂府》
天寶五載已後,楊貴妃專寵,後宮人無復進幸矣。六宮有美色者,輒置別所,上陽是其一也。貞元中尚存焉。
上陽人,紅顏暗老白髮新。
壕゚監使守宮門,一閉上陽多少春。
玄宗末?初選入,入時十六今六十。
同時采擇百餘人,零落年深殘此身。
憶昔?悲別親族,扶入車中不教哭。
皆雲入?便承恩,臉似芙蓉胸似玉。
未容君王得見面,已被楊妃遙側目。
?令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。
(上陽 白髮の人)
上陽(宮)の人、紅顏暗く老いて白髪新たなり。
壕゚の監使宮門を守る、一たび上陽に閉ざされてより多少の春。
玄宗の末? 初めて選ばれて入る、入る時十六今六十。
同時に採擇す百余人、零落して年深く 此の身を殘す。
憶ふ昔 悲しみを?みて親族に別れ、扶けられて車中に入るも哭せしめず。
皆云ふ 入?すれば便ち恩を承くと、臉は芙蓉に似て胸は玉に似たり。
未だ君王の面を見るを得るを容れざるに、已に楊妃に遙かに側目せらる。
?(ねた)みて潛かに上陽宮に配せられ、一生遂に空房に宿す。
上陽の人は、紅顏暗く老いて白髪が新たである、
壕゚の監使が宮門を守っています、ここ上陽に閉ざされてどれほどの年月が経ったでしょうか、玄宗皇帝の末年に選ばれて宮廷へお仕えしましたが、その時には16歳でしたのが今は60歳
同時に100人あまりの女性が選ばれましたが、みなうらぶれて年が経ちわたしばかりがこうして残りました、思い起こせば悲しみを呑んで親族と別れたものでした、その時には助けられて車の中に入っても泣くことを許されませんでした
皆は入内すれば天子様の寵愛をうけられるといいました、あの頃のわたしは芙蓉のような顔と玉のような胸でした、だけれどもまだ天子様にお会いできる前に、楊貴妃に睨まれてしまい、妬みからここ上陽宮に押し込められて、一生を遂に空しく過ごしました
秋夜長,夜長無寐天不明。
耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。
春日遲,日遲獨坐天難暮。
宮鶯百囀愁厭聞,梁燕雙棲老休?。
鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。
唯向深宮望明月,東西四五百回圓。
今日宮中年最老,大家遙賜尚書號。
小頭鞋履窄衣裳,青黛點眉眉細長。
外人不見見應笑,天寶末年時世妝。
秋夜長し、夜長くして寐ぬる無く天明ならず。
耿耿たる殘燈 壁に背く影、蕭蕭たる暗雨 窗を打つ聲。
春日遲し、日遲くして獨り坐せば天暮れ難し。
宮鶯百たび囀ずるも愁へて聞くを厭ふ、梁燕雙び棲むも老いて?むを休む。
鶯は歸り燕は去って長へに悄然たり、春往き秋來して年を記さず。
唯だ深宮に明月を望む、東西四五百回 圓かなり。
今日 宮中 年最も老ゆ、大家遙かに賜ふ尚書の號。
小頭の鞋履 窄【せま】き衣裳、青黛 眉を點ず 眉細くして長し。
外人は見ず 見れば應に笑ふべし、天寶の末年 時世の妝ひ
秋の夜は長い、夜が長くて眠ることもできず空もなかなか明けません、ちらちらと揺れる灯火が壁に影を写し、しとしと降る雨が窓を打つ音がします、
春の日は遅い、日が遅い中一人で坐し得いますが空はいつまでも暮れません、
宮殿の鶯が百度囀ってもわたしは悲しくて聞く気になれません、梁の燕がつがいで巣くっても老いた私には妬む気にもなれません、鶯は故郷へ帰り燕は去ってもわたしは悲しい気持ちのまま、季節が移り変わってもう何年になるでしょうか
ここ深宮で月の満ち欠けを見てきましたが、満月はすでに四・五百回も東西を往復しました、おかげで宮中第一の年寄りになってしまいました、天子様はそんなわたしに尚書の號を賜ってくださいました
、
そのわたしときたら先のとがった靴を履いてぴったりとした衣装を着て、黛で眉を描きますがその眉は細くて長いだけ、もしよその人に見られたら笑われるでしょう、これは天宝の昔に流行った御化粧なのです
上陽人,苦最多。
少亦苦,老亦苦。少苦老苦兩如何?
君不見昔時呂向《美人賦》,〈天寶末,有密采艷色者,當時號花鳥使。呂向獻
《美人賦》以諷之。〉又不見今日上陽白髮歌!
上陽の人、苦しみ最も多し。
少くして亦苦しみ、老いて亦苦しむ。
少くして苦しむと老いて苦しむと兩つながら如何。
君見ずや 昔時 呂向の《美人の賦》、又見ずや 今日 上陽白髪の歌
上陽の人は、苦しみが最も多い、若くしても苦しみ、老いてもまた苦しむ、若くして苦しむのと老いて苦しむのとどちらが辛いだろうか、どうかご覧あれ、昔は呂向の美人の賦、またご覧あれ、いまは上陽白髪の歌
上陽とは後宮のひとつ、天子に仕えるべく召し出されながら、天子のお傍に近づくことを得ず、空しく待機する女性たちを収める場所である、この楽府は、そこで一生を過ごした薄幸の女性の生涯を歌ったもの。
唐代の女性
■唐の音楽と歌舞
■唐の歌妓
■唐時代の気風
■生活実態
■食事と料理
■女性の服装と化粧
■女性と結婚
■女性に関する年中行事・趣味趣向
/年中行事/運動・競技/屋外遊戯/酒と酒宴/屋内娯楽/喫茶と茶道/散楽と劇/牡丹の
流行/異国趣味/無頼と刺青/遊侠と奢豪/虎と狐への信仰
■女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものが
あった。
人日の剪彩/蕩鞦韆(ぶらんこ蕩ぎ)/闘百草(百草を闘わす遊び)/弓子団子/七夕の乞巧
(針仕事の占い)/拜新月/蔵鈎(鈎隠し)/動物の飼育
■唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。
元宵節観燈(燈龍の見物)/春薪踏青(ハイキング)/芝居見物/ポロ見物
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